手首に一つ、肩にふたつ。そして鏡を見ればきっと鎖骨にもいくつか。
 朝の光の中で、無意識のうちにからだに付けられた甘咬みの跡を数えるのが菅原の日課になりつつあった。どうしようもなく甘く爛れた頭で、どうしようもなく幸福な日課だな、と自覚すると羞恥がこみ上げてくるけれど、赤面したところで今、歯型を付けた当人はおだやかな顔で寝ているからどうでもよかった。



 影山には咬み癖があるのかもしれない。そう感じたのは何度めかのセックスをした時で、当り前だけれどセックスをしなければけっして知らなかった。
 背中、肩、鎖骨、腕、手首。からだの何処かを甘く咬まれるのは、彼に食べられているような錯覚をおぼえる。美味しくもないだろうに影山は無心で舐めて咬む。そのひたむきさが嬉しかったし、幸福と思った。
 すぐ側で眠る影山の頬を、指先でなぞる。まるく、すべらかな頬。子どものように穏やかで、それは菅原が今までずっと見てきた普段の彼の顔だった。
 稚拙で、ガキくさい悪態ばかりを吐く幼い子ども。そのイメージがあまりに強く、だからセックスの時に見せるむきだしにされた情欲を前にすると、菅原はいつも怯んでしまう。お前いつもはそんな顔しないじゃん。そう言うと彼はバツが悪そうに唇を尖らせて、赤面するのがすなおで可愛かった。
 頬から額、今は皺の寄っていない眉間、こめかみへと順に人差し指を滑らせ、鼻のあたまを通って唇をなぞる。薄い唇。その唇の透き間に指先を侵入させた。白い歯が僅かに覘き、どきりとする。夕べの出来事がフラッシュバックして、噎せ返りそうだった。
 影山の歯の硬さを指先で感じる。健康に並んだ白い歯。これに俺の細胞が一つでも付いてるかもしれないんだよな、と思うとみょうな昂奮があった。
「……わっ」
 ぬる、と指が影山のくちに吸いこまれ、悲鳴のような声が出た。薄く開けられた影山の瞼から彼の鳶色の瞳が覘いた。真っすぐこちらを射貫く視線。
「び、びびった……おはよう」
「……っす」
「ごめん起こして、」
「……いえ」
 影山の熱い舌を指先に感じる。やわらかく、柔軟に動く粘液の感触。味わうようにゆっくりと動かされると、反射的にからだの奥が疼いた。
 歯を、立てられる。
 影山の硬い歯が皮膚に当たる。少しも痛くはなかったけれど、甘い痺れが指先から背中に這った。
「影山……おいしいの?」
「……ん」
 まだ眠そうな目を瞬かせて、飴を舐めるように菅原の指を吸う。
「俺のこと食っちゃう気?」
 自由の利く左手で頭を撫でると、影山の瞳がふわりと蕩けた。その表情があまりにも幸福そうで、眩暈がする。
 菅原の指をくちに含み、吸い、舐め、咬む。味わうように、食べつくすように、口腔で甘くなじる。舌の動きはダイレクトに皮膚から神経へ、そしてからだの奥へと伝うのに、不思議と気持ちは静かだった。
 指を舐められるという刺激は少なからず性的ないやらしさが伴うものだけれど、彼のこの行為は、幼い子どもがくちさびしさから行うものと同義だと菅原には思えた。行為の何処にも情欲の火が燈っていないことに、失望と安心を同時にする。
(まるで子どもだ)
 この感情はたとえば、子どもを持つ親のそれといっしょだろうか。つい数時間前までセックスをしていた相手に抱くべきものではないかもしれない。夕べの大人びた顔と、今の彼の顔が、同じ人間のものに一致しない。
(可愛い)
 指吸い、は、赤ん坊が母親の愛情を求めて行うものだと知っている。指しゃぶりの悪影響を謳った広告を、以前通っていた歯医者で見たことがあった。空腹、眠気、さびしさを、無意識的に自分の指を吸うことで紛らわす。今の影山はそれとおなじ、指しゃぶりをやめられない幼子そのものに見えた。目の前にある指を反射的に吸う。子どもの原始的な才能。
 彼の目に、大人の欲を感じられなかった。
「……トビオくん、お腹空いてるのかな?」
 囁くと、影山は「ん……」と呻いてゆるく首を振る。白いうなじが視界で光った。
「眠いの?」
「んー……」
「……さびしいの?」
 そろそろと開いていく影山の瞼の下が、微かに濡れている。遠慮がちに伏せられた瞳が持ち上がり、菅原を再度見つめる。幼さが消えた瞳。菅原を怯ませる、色を帯びた目。
 心臓が、どきりと跳ねた。
「すがわらさん、」
 指をくちに含んだまま、舌っ足らずの口調で影山が言う。声が、肌を伝って、皮膚の内側を震わせた。
「菅原さんの指、うまいっす」
 しょっぱくて、ちょっと甘くて。
「食べたい」
 影山の手が菅原の手首を掴み、中指、薬指を舌で舐め、くちに入れる。彼のくちの中に三本の指。舌の動きがにわかに変わる。舐め、吸い、甘く咬む。それは非道くいやらしい感触だった。
「……食べたい」
 今、目の前で自分の指を玩ぶ影山は、セックスの時に見せる“雄”の表情をしている。顔、ほんと変わるよな。指先から甘ったるさがこみ上げてくる。胸の奥がざわっ、と騒いで、食べられたい、と菅原は思った。こいつに食べられてしまいたい。指だけでなく、背中も腰も鎖骨も手首も。
 抱いていた父性の愛情が消えていく。影山の表情が変わることで、指吸いが愛情を求める行為から、自分へ向けられる愛撫にかたちを変える。子どもの成長の縮図。それを目の前で見ているようだった。
「食べていいよ、影山」
 食べて、ぜんぶ食べて、跡かたもなく。
 言うと、影山は目の下をほんの少し赤く染めた。一瞬だけ浮かんだ幼い表情。それはあっという間に消え、むきだしにされた欲情にひりつくような快感をおぼえた。

(2014.06.27)