「お前のことが羨ましい」と俺は言った。
 その時のあいつの、言葉の意味が理解できずに晒したぽかんとした顔と、その裏に隠れそうで隠れきれなかったほんの少し疵ついたような顔に、不覚にも胸がざわっ、とした。



◇ ◇ ◇



 こいつは人を疵つけることに無頓着なんだろうな。きょうもきょうとて飽きもせず、日向と言い合いをしている影山を見て菅原は思う。あくまで影山が一方的に言葉を吐き、その言葉は棘だらけで、聞いていてはらはらする。相手が日向じゃなければきっと心が折れるな――そんな幼い罵声の数々。
「影山はよくくちが廻るよな……きっと頭の回転が速いんだな」
 思わず呟くと、側にいた澤村が苦笑した。
「入部当初に比べたらだいぶソフトになったと思うけどな。……相変わらずきっついけど」
「そうだね」
 たしかに、はじめて影山を見た去年の大会、入部した今年の春、そして初夏を迎えた今と、彼は変わった。裸の王様が服を着た、ってまさにそんな感じで、変化した。言葉を凶器にするのは相変わらずだけれど、形振り構わず突き刺すのではなく、ただ振り回す程度には大人しくなった。それを菅原も澤村も知っている。成長した影山を知っている。だからもう、少しくらいのチームメイトとの言い合いに仲裁に入ったりはしない。
「ちょっとずつだけど成長してんだよあいつも」
「……そうだね」
 田中があいだに入って言い合いがとまる。すっ、と消える影山の声。不貞腐れたように尖る唇。膨らんだ、まだまるい頬。お洒落とは言い難い、近所の床屋で切ってもらっただけという印象の地味なかたちをした黒い髪。パーツ一つ一つはまだこんなにも幼く、庇護されるべき存在で、そのはずなのに、あいにくと彼は誰よりも強かった。かなしいほどに、強かった。
 お前のことが羨ましい。
 成長してるって大地に認められて、自分から前進できるお前の強さが羨ましい。
 胸のうちで浅はかなことを考える。それが無責任で自分勝手な羨望であることに、菅原は気づいている。



◇ ◇ ◇



 横を歩く影山の、自分より若干高い位置にある頬や耳や鼻。薄く日焼けしている肌は香ばしそうで、自分のものとは全然違う。歩く時に、ほんの少し投げ出すような脚の動きも、伸びる影も。 
 二人きりで帰り路を歩いていると、隣の影山はどうしようもなく子どもになる。発する声はたどたどしく震えるし、何度も吃(ども)る。こいつほんとに俺のことが好きなんだな、とわかって、いとおしいやら憎らしいやらで菅原は胸がいっぱいになるのだった。
「影山」
 自分が名前を呼ぶと息をとめて、一拍置いて、神妙にいう。「はい」。
「夕がた、日向と喧嘩してたろ」
「……」
「してたろ?」
「……はい」
 すなおさが可愛い、と思う。叱られる準備をしていると、何も言わなくとも気配でわかる。思わず頬が緩んだ。
「お前さ……ほんとすなおな」
「すんません」
「謝んなくていいけどさ」
 感情をむきだしにして、自分を主張して、言葉で相手を切り刻む影山と、今、自分の隣でしおらしくなっている影山が、一致しなかった。けれどそれは八方美人などではけっしてなく、間違いなくどちらも影山で、彼に、裏表はない。嘘がつけない純粋さやすなおさを、心底いとしいと思い、同時にとても心細くなる。
「……俺お前と話してると、逃げ場がないなって気持ちになるよ」
 こんなことをこいつに言ったところで、理解などされないと理解できた。案の定、影山は隣で僅かに首を傾げる素振りを見せる。
 やめろよ、と、冷静な部分が自分を止めるけれど、息を吸い、息を吐いた時、言葉は自然とくちから洩れた。
「お前は俺のこと好きって言ってくれるし、俺もお前のことが好きだ。でもたまに、ほんとにたまに、どうしようもなくお前に疵つけられてる気持ちになって、かなしくなる」
 初夏の夜道は薄ぼんやりとしていて、夜になりきる前の幽かな明るさが菅原をよりいっそう孤独にさせた。吐いてしまった言葉が彼に届いて、彼の内側にゆっくりと浸透していくのを確かに触角する。
 非道いことを言っている、と菅原は思った。俺の一言一言に犬みたいに従順に、笑ったり焦ったりするこいつのことだ。お前に疵つけられてるなんて言えば、間違いなくこいつは、疵つく。
 そっと影山を窺うと、彼の瑠璃色の瞳とぶつかった。竦んだような瞳だった。影山が立ち止まり、菅原もまた歩をやめた。
「……ごめん」
 あ、俺今、すげーかわいそうなことしてる。こいつがいちばん疵つくってわかることを、こいつに言ってる。
 彼の子ども染みた乱暴な物言いが、自分に向けられたものでなくとも、彼の存在そのものが菅原にはすべて眩しく、遠く手の届かないものに見えた。天才。その言葉の響きを前にしてからだが竦んだ。そのくせ自分に見せる幼い子どもの表情に安堵し、たどたどしく頼りない姿を微笑ましく感じ、いとしいと思い、同時にとても、腹立たしかった。
 いっそう完全に拒絶してくれればお前のこと嫌いでいられたのに。
「影山はなんで、俺のこと好きなの」
 阿呆みたいなことを訊いている、と自覚できた。なんで、なんて、こいつに問うべきじゃないことくらいすぐにわかった。言葉をみ失い、視線を彷徨わせて、途方に暮れたような表情で佇む影山が非道くかわいそうで仕方がなかった。
 自分の言葉が彼の心に、サクッと音を立てて刺さったのを菅原は聞いた。
「……なんでとかじゃないです」
「え?」
 聞こえていたけれど、意味が理解できず聞き返せば、「なんでとかじゃないです」と影山は律儀に繰り返した。
「俺は菅原さんのぜんぶが好きで。声も、掛けてくれる言葉も、優しいとこも。ぜんぶが好きで、いいなって思って、だから、なんでとかじゃないんです」
 せつない色を浮かべる瞳がかなしかった。言葉を知らない彼が一生懸命にしゃべるさまはけなげで、足りない言葉でもって伝えようとする必死さがいとしかった。
「……それじゃだめですか」
 悪い点数のテストを見せ、親の叱責を待つ子どものような顔で彼は項垂れる。
 ――あ、泣きそう。
 と、思ったのは、自分がか、影山がか。
「ごめん、影山、ごめん」
 ごめん、そんな顔させて。そんな顔させたいわけじゃないのに、お前を疵つけたいわけなんかじゃないのに。
 胸のうちでぐるぐると、言葉が渦巻き、それはかたちにはならなくて、菅原は居た堪れなさに目を伏せた。
「……俺、菅原さんに嫌われたくないです」
 ぽつり、と、影山の声が頭上に落ちた。雨粒のような呟きだった。細く、千切れそうに頼りない声に顔を上げると、眉を歪めて今にも泣きだしてしまいそうな影山の顔が視界に這入った。嫌われたくないです。もう一度、浅く息を吐いてから言う。
「嫌われたくないんです、嫌われるのはいやです、ずっと好きでいたいし、好きでいてほしいんです」
 心臓がギシッ、と音を立てたのがわかった。このまま放っておいたらぼろぼろと崩れてしまいそうで、菅原は咄嗟に彼のからだを抱きしめた。そうする以外に何も思いつかなかったのだ。
「ごめん」
 と、菅原は言った。
「ごめん、ほんとにごめん、変なこと言って」
 彼の左胸から、どくどくと早鐘を打つ心臓の音が響いた。自分の放った言葉が、こんなふうに彼を疵つけたことをかなしく思った。
「影山ごめんな、もうひどいこと言わないから」
 赦して、と懇願する。都合のいいことばかりくちにしている自分を、影山は突き放したりなどしないことを知っていた。いっそうそうしてくれればいいのかもしれないとも思ったけれど、嫌われたくないと思っていることは菅原もまたおなじだった。
 嫌われたくない、嫌われるのはいやだ、ずっと好きでいたいし、好きでいてほしい。
 影山の、飾りっ気も何もない言葉を心の中で繰り返す。その言葉に嘘などなくて、菅原はぼんやりと、ただしい、と思った。
 ジャージに包まれた彼のからだの厚みを感じる。手のひらが肩甲骨に触れる。微かに振動があって、影山の腕が背中にまわった。抱きしめる、というほどロマンチックな動きではなく、縋りつく、に近い切実さが、あった。
「……影山ぁ」
 少しばかりくぐもった声で、彼を呼ぶ。
「はい」
「疵ついた?」
 意地悪な問いかけに一瞬、影山はたじろいだけれど、正直者の彼はすぐに返した。
「……疵つきました」
「俺といっしょだとこれからも、お前を疵つけるかもしんねーよ?」
 それでもいいの、お前それでもいいの、それでもお前は俺を嫌わずにいてくれんの。
 街燈に照らされた表情は、いつもより険しく、強張って見える。俺がお前をそんな顔にさせてんだよ? お前が思うほど俺は優しくねーよ、きっと。
「それでも、菅原さんに嫌われるよりぜんぜんいいです」
 だから俺のこと、嫌わないでください。影山はそう言った。真っすぐに視線を向けて、声を放った。その瑠璃色の瞳から、今にも涙が落ちてしまいそうだった。
 ――ああ、泣きそうだ。
 俺も、お前も、泣いてしまいそうだ。
「……そっかぁ」
 ほんとうに、お前を嫌いになれたらよかったのに。お前を嫌いになれたなら、突き離して泣かせて泣いて、お前をさんざん困らせてやれたのに。疵つけることができたのに。
「ごめんなぁ」
 影山のからだをちからまかせに抱いた。疵つけた事実も、つけてしまった疵も、もう取り返しはつかないと気づいていたけれど、そうする以外に落ちてしまいそうな涙をとどめる術を、菅原は知らなかったのだ。