――紬さんの声が聞こえる。
閉じていた目を薄く開け、万里は浅く息を吐いた。枕もとに置いている携帯のディスプレイを開くと、深夜の三時を過ぎたところだった。闇の中でつよい光を飛ばすディスプレイに目を瞬かせ、伸びをすると、咽の奥でちいさな声が洩れた。対になっているベッドからは同室の十座の鼾が聞こえ、そのリズムは最初に苛立った二時間前とすこしも変わっていない。
せっかくの土曜日の夜、いつものように至とゲームに興じようと意気ごんでいたのだが、至はあいにく仕事の飲み会が入ったとのことで予定がぽっかりと空いてしまった。しばらくベッドの中で一人でゲームをしていたが、いくつかのクエストをクリアしたところでつまらなくなり、眠気もやってきたため早々にゲーム機の電源を落としたのだった。
それが三時間前。
目を閉じて、全身からちからを脱いてベッドにからだを横たえる。まなうらではプレイしていたゲームの画面がちらちらと甦り、やっぱ至さんいねぇとつまんねーわ、などと思いながら浅い眠りに身を沈めていった。
声が聞こえたのは、いっこうに訪れない深い睡眠に焦れてなんどめかに舌を打った時のことだった。
聞き馴染んだ声が自分を呼ぶのを、耳の深い場所でたしかに聞いた。その声は輪郭を持ち、確実なかたちとなって万里を完全に現実へと引き揚げた。
寝返りを打って天井を仰ぐと、先だって聞こえた声がふたたび鼓膜を震わせ、万里の脳内に淡く響いた。万里くん、と、その声は万里の肌を撫でさすり、鳥肌を走らせる。それが紬の声だと、万里にはすぐにわかった。
目をほそめ、いちど閉じて、ふたたび開ける。自分の呼吸の音がやけに大きく聞こえる。いつもなら十座の鼾と寝息に苛立ち舌打ちの一つやふたつこぼれるところだが、今夜は彼の存在がずいぶんと遠いものに感じて全身がひどくむず痒かった。否、今夜に限ったことではない。このところ、ベッドに入ってしばらくのあいだ、うまく眠ることができないでいた。そんな時は決まって、耳の奥で彼の声がするのだった。低く、しずかな調子で名前を呼ぶ紬の声が頭の中で響くたび、万里はからだのうちがわが熱を帯びるのを抑えられず、何度も深いため息をつく。
仰向けの状態で大人しくしていればやり過ごせる、そんな思いとは裏腹に、熱はいっこうに冷める気配を見せず、次第に全身を駆け巡り、指が声を求めて宙を彷徨う。
紬さん。心中で呟けば、それは瞬く間に欲に姿を変え、そうしてやっと、万里は諦めてからだを起こすのだった。
気配を殺してベッドを降り、部屋を出る。静まり返った寮の廊下を、トイレに向かって歩いていくあいだにも、声は万里を追ってきた。万里くん。紬の声はいつだって優しく、やわらかく、耳にするたび胸が痛むほどだった。そんな経験を、万里は生まれてはじめて味わった。声が聞こえる、声が追いかけてくる、そうしてまた、自分もその声を追いかけ、求め、欲しくて欲しくてたまらずにいる。
「……クソッ」
トイレに入り、誰にでもなく悪態をつくと同時に、寝間着代わりのスウェット越しに性器に触れた。既に硬くなっているそこを指先でなぞれば、背中に緩い快感が這う。スウェットと下着を下ろして直接触れば、かたちを変えた性器が手の中でさらに硬度を増し、万里はほとんど反射的に指を動かしていた。
日中、紬と一緒にさいきんできたばかりだというカフェに入った。万里はアメリカンを、紬はカプチーノをそれぞれ頼み、まるで他愛のない話をしゃべって時間を過ごした。なんの話をしたのかさえよく憶えていない――たぶん学校のこととか、教師のつまらない悪口とか、そういうの。紬さんがにこにこ笑って聞いてくれるのが嬉しくて、かなり一方的にしゃべって、笑って、それで俺はすげぇ満たされて、コーヒーは美味くて、店の雰囲気もよくって、それで、気がつけば三時間が経ってて、ふたりでもうこんな時間?! なんつって、そこでまた笑って。記憶が甦り、それが鮮明に色づくほどに万里の頭に響く紬の声もまた鮮やかなものに変わっていった。耳朶をなぞっていく声がたまらないと思った。背中がぞくぞくとする。あの声が自分を呼ぶ。あの声が自分の声に反応してことばを紡ぐ。そうして、そう思うことへの背徳と、どうにもならないつよい欲とがからだの深部で激しくぶつかり合い、よりいっそう万里を昂奮させた。
絶頂はすぐにやってきて、トイレの便器に白い体液が吐き出される。照明に霞む濁った精液を見下ろし、途端に襲ってきた脱力感に万里はドアに背中を預け、はあ、と息を洩らした。
――最悪、
心の中で毒づいて、トイレットペーパーを乱暴に引き千切った。手を拭い、新しい紙で便座を拭き、すぐに水を流す。白濁はあっという間に消え、しかし万里の胸に咲いた欲の芽は、摘み取られることなく成長をつづけているのを自覚できた。
紬を想っての自慰は、はじめてのことではなかった。
これまでに幾度か、こうしてトイレで自分を慰め、吐精しては絶望感に浸った。よく飽きもせずまあ、と自分でも思う。自嘲の笑みすらくちもとに浮かび、それに気づくたび、らしくなさに暗澹とするのだった。
万里くん、と呼ぶあの人の、あの声がすきだと知った。低く優しく、撫でるようにやわらかなあの声を、たまらなく欲しいと思った。あの声で名を呼ばれると、反射的に全身が熱くなる。激しくつよく、欲さずにいられなくなる。カフェのテーブルで、寮の中庭で、談話室で、キッチンで、あの人がそこにいる姿を見ると、唇が何かを紡ぐのをいつまでも待っていたくなった。その唇を、できれば自分の名前をなぞってほしいと思った。万里くんと、なんどだって呼んでほしかった。
「……かっこ悪ィ」
最低に最悪な気分だった。らくしねぇ、こんなん俺じゃねぇ。ダセーし、かっこ悪ィし。なんどもなんども心中で呟き、視線を持ち上げると、トイレの窓から憎らしいほどにあかるい三日月が輝いているのが見えた。
・
日曜日ということもあってか、けさの談話室は閑散としている。二階から降りてきた万里は、ぼんやりとした頭でしずかな談話室を見まわし、欠伸を一つ、洩らした。ソファに坐って本を読んでいた左京が顔を上げ、目をほそめて万里を見る。
「珍しく早ぇじゃねぇか。つっても、もう八時だが」
「……なんか、目ぇ覚めちまったんで」
「いいことだ」
ふっと息を洩らして、左京は再び本に視線を落とした。
窓から差しこむ光が眩しくて、万里は瞼をこする。夏が死ぬ直前――秋のはじまりの光は、質も量も夏のそれとはまるで変わっている。ラグの上に落ちる影すらも。
昨夜、あれから、ベッドに戻ってすぐに目を閉じた。早鐘を打ちつづける心臓の音に耳を澄ませ、からだをまるめて、熱が去っていくのを待った。紬さん、と、誰にも聞こえないちいさな声で、いちどだけ名を呼んだ。瞼に浮かんだ紬の顔、耳の奥で響く声は、次第に薄れ、やがて眠りが訪れた。
目ざめると部屋はあかるくなっていて、朝が来たことを知る。十座のベッドは空で、携帯で時間を確認すれば朝の八時をすこし過ぎたところだった。いつもの日曜日に比べれば早い起床だった。
気だるいからだを持ち上げて、しばらくのあいだ、ベッドの上から動けずにいた。昨夜のあらゆる残滓がからだを包んでいるようで、居心地が悪い。
「……紬さん、すんません」
ぽつんと呟けば、その声はふわりと浮かびあがり、天井にぶつかって瞬く間に消えた。
オカズにして抜いたことははじめてではないにせよ、罪悪感はいつだって万里の胸を締めつける。紬への申し訳なさと、自分のあまりの恰好悪さへの苛立ち。それらが混ざりあい、何とも言えないせつなさが万里を襲った。
「お、万里。珍しく早いな。もう八時だが」
キッチンから声がして振り向けば、臣がエプロンで濡れた手を拭いながらこちらに近づいてくる。
「左京さんとおなじこと言うなよな……」
欠伸をまた一つ、こぼす。
「朝飯、あるぞ。食うだろ?」
「食う」
臣は冷蔵庫を開けてラップをした皿を何枚か取り出し、手際よくテーブルに並べていく。ほかのメンバーは疾うに食事を終わらせて、各々の活動を開始しているようだった。テーブルにつき、出された目玉焼きに箸をつけたところで、視界の端に動く影を見つけて手が止まった。
――あ、
中庭の草花のあいまに、スコップを持った紬の姿があった。ラフなロングTシャツにジーンズ、長靴を履き、首にはタオルを下げたその姿は、いかにも庭仕事をしているといった態で、けっして恰好のよいものではなかったが、その恰好悪さが紬にはやけに似合った。
「紬さん、ずいぶん早くから庭に出て作業してる」
万里の視線に気づいた臣が、説明口調で言った。
「風はもう涼しいけど、日差しつよいから熱中症とか気をつけてもらわないとだなあ」
ふぅん、と、目玉焼きをくちに運びながら、万里は言った。
「さすがお庭番長」
「だな」
中庭のそこここで、秋を象徴する花が咲きはじめている。花の名前など詳しくない万里でも、時折り首を揺らすコスモスがうつくしいことくらいはわかった。以前、紬が鉢で買ってきて庭に植え替えをしたものだ。花びらを震わせるコスモスの根元の雑草を取り、慈しむように手入れをする紬の横顔が、ダイニングテーブルについた万里からもよく見える。
ふいにため息が聞こえたと思えば、左京が本を綴じ、ソファから立ち上がったところだった。
「伏見、俺はそろそろ出るぞ」
はい、と臣は返事をする。「帰り、遅くなる時連絡ください」。
「左京さん、出掛けんすか?」
「ああ、仕事だ」
「うぇ……ガチヤクザっぽいそれ」
「うるせぇよ」
いってらっしゃい、と臣が言うのに軽く頷き、左京は談話室を出ていく。その背中を見送った臣もまたエプロンを外し、
「俺もきょうはちょっと出掛けてくる。昼前には帰るから、飯の心配はしなくていいからな」
「へいへい。っつーかなんか、さっきの会話マジで夫婦みたいで笑えんだけど」
「はは。左京さん、お父さんか」
「臣はママな」
「じゃ万里、留守番は頼んだわよ」
臣は笑い、万里の頭をくしゃりと撫でた。
「俺が息子かよ」
「長男だ」
「あっそ」
他愛のないやり取りが、昨夜の罪悪感をならしていくのを万里は感じていた。
臣が談話室を出ていき、途端にしずかになった空間で、紬の影が、視界の端でまた、揺れる。こちらの存在にはまだ気づいていない様子で、一心に草取りをしている。帽子、被ったほうがいーんじゃねーの。夏のあいだ被っていた帽子を、けさは被っていない。臣の言うとおり、日差しはまだすこしつよく、中庭に燦々と降り注いでいる。
万里は席を立つと、空になった皿を手早く流しで洗い、食器籠に入れた。それから中庭につづく窓を開け、
「紬さーん」
彼の名前を、呼ぶ。
紬は顔を上げてこちらを見、「万里くん」とほほ笑んで見せた。頬に土がついている。
「おはよう」
いつもと何も変わらない調子で、紬は言う。
「はよっす」
万里もまた、ふだんとおなじ挨拶をくちにした。
「きょうは早いんだね」
「あー、それさっきっから散々言われてますわ」
そうなの? と、紬は笑った。そうして、腰に手を宛てて、大きく伸びをする。
シャツにもジーンズにも土がつき、紬が動くたびにぽろぽろと落ちていく。
万里は窓の近くに立てている共用の荷物掛けから紬の帽子を取ると、サンダルを履いて中庭に出た。
「紬さん、帽子」
紬は自分の頭をぽんと叩き、
「あ、忘れてた」
「日差しあんだから、まだ」
帽子を手渡そうとする万里に向かって、紬はこうべを垂れてみせる。
「乗っけてくれる?」
紬のかたちのよい頭が目のまえで下がり、髪の毛がさらりと揺れた。
「……紬さん、幼稚園児か何か?」
思わずそう言えば、紬は笑った。
「手、土で汚れてるから」
「ああ……」
帽子を被らせると、思いがけず彼の頭がちいさいことに、その時はじめて気がついた。
「うーわ頭、ちっちぇー」
「ええ? そうかなあ」
顔を上げて、紬は笑った。
中庭は、とりどりの花が咲きほころびはじめていた。花屋で購入してきた鉢の寄せ植えがほとんどだが、色鮮やかな花で埋め尽くされた中庭は、あらためて見ると圧巻で、紬の丁寧な世話の様子をうかがい知れる。
庭を見まわす万里の視線に気づいた紬は、浅いため息をつき、「夏ももう終わりだね」、呟くように言った。
「夏の花が終わって、秋の花が咲きはじめてる」
視線を中庭から紬に転じれば、彼は遠い目をして中庭の花々を見つめていた。朝日にわずかに目を眇め、しかしそのまなざしはどこまでも優しげで、万里はふいに昨夜のことを思いだして胸がつまった。
――この人をオカズにしてるとか、死んでも言えねぇ、
目のまえの人物は、性の対象にするにはあまりにきれいすぎるように見えた。きれいで、無垢だ。万里は咽の奥に唾を押しこみ、髪の毛を横柄に掻き上げる。そうして、
「紬さん、コーヒーでも飲むか?」
「え?」
紬が目をまるくさせて万里を見た。
「コーヒー。ちょっと休憩ってことで」
淹れてくる、と言い残し、万里はキッチンに戻る。背中に紬の視線と存在を感じ、奇妙なこそばゆさを感じる。
コーヒーメイカーに粉をセットし、抽出される音を聞きながら、耳の裏のあたりがひどく、熱くなっていることを万里は自覚した。
紬の声が、ことばが、からだの中に浸みこんで全身を巡る。その感覚は万里の調子を狂わせ、呼吸さえくるしくさせた。
思わず舌打ちが洩れる。恰好悪い、と思った。こんなん、俺じゃねーし。昨夜からくりかえしたことばが再び心中に湧き上がる。いっそう泣きたい気持ちだった。泣ければ、すこしはらくになれそうな気もした。それでも、思うだけでは涙は出てこない。や、ここで泣いたらもっとカッコつかねーけど。泣く自分をまるで想像できず、くちの端に自嘲の笑みが浮かんだ。
出来あがったコーヒーを紬と自分のマグカップに注ぎ、両手に持ってキッチンを出ると、紬は窓辺に坐り万里を待っていた。
「ほい、コーヒー」
差し出したマグカップを受けとり、ありがとう、と紬はほほ笑んだ。両の手でカップを持ち、香りを吸いこむ紬の姿は、カフェで向かいあって坐り、お茶をする時の姿とまるで変わらなくて万里にはすこしおかしかった。
「どうしたの、万里くん」
ふっと息を洩らして笑った万里を見あげ、紬は言う。
「いや、ちょっと」
「え、何?」
「いやいやいや、何でも」
「えー、気になるなあ」
言いつつも、それ以上は言及せずに紬はコーヒーをひとくち、飲んだ。ん、と声がこぼれる。
「美味しい。万里くん、コーヒー淹れるの上手なんだね」
「俺、何でもできっから」
「はは。そうだね」
羨ましいな、と紬は言った。笑みに溶かすようなやわらかい口調だった。
羨ましい――紬のことばを心中で反芻させる。羨ましい、か。おそらくは半分の冗談と、半分の本気をこめて、彼はくちにしたのだろう。
実際、万里は何でもできた。勉強もスポーツも喧嘩も、与えられた課題は難なくこなしてこれまでの人生を生きてきた。コーヒーだって、臣がやっている姿を思いだしつつ淹れたところ、素人にしては充分なくらい上手いコーヒーを淹れられた。何かをやってみてできなかった記憶は、カンパニーに入る前、十座に喧嘩で敗れた時を除いて、いちどもない。
「紬さんも、人を羨ましいとか思ったりすんだ」
紬は視線を万里に向け、目尻を下げた。「そりゃ、あるよ」。そうして、ふふっと笑う。
「どうしてそんなこと言うの」
「いや、なんか、紬さんのくちから“羨ましい”とか、あんま聞かねーかなとか思って」
「そうかな」
ふーっとコーヒーに息を吹きかけながら、紬は言った。「でもたしかに、そうかんたんにくちにすべきことばではない、かな」。
あんまりいいことばではないからね、と言う紬は、いかにも教師のようで、万里にはおかしかった。
一羽の蝶々がどこからか飛んできて、万里と紬のあいだを通り抜け、コスモスの花びらにとまる。蝶々の重みで淡い赤紫色の花びらをわずかに震わせたコスモスの姿は、可憐で、つつましく、そのくせ存在感があった。目を奪われていると、
「コスモス、きれいに咲いてよかった」
ひとりごちるように、紬は言った。見れば、紬はまぶしげに目をほそめてコスモスの群れを眺めていた。
夏が短かったためか、例年に比べてコスモスの開花が早いとテレビが報道していたのを万里も聞いていた。コスモスがもう出てたよ、と嬉しそうに鉢を見せてきた紬のことをよく憶えている。嬉々として庭に植えかえていた後ろ姿も。
中庭のすべてを任されている紬にとって、ここはこの人の城だ、と万里は思う。どの植物たちも、彼の献身的な愛を受けてのびやかに育ち、生き生きと成長をつづけている。
白い羽を休ませている蝶々と、コスモスのコントラストは、芸術など知らない万里から見ても、情緒があってうつくしいものだった。
あの紫のがナデシコ、白い花はクレマチス。クレマチスは夏の花だけど、まだ咲いてるね。それから蕾だけどリンドウ、あの巻きついてるのは蔓薔薇で、これから咲くよ。ツワブキがもう咲いてる、ほんとうだと十月半ば頃に咲きはじめるんだけど。
しずかな調子で中庭に植えられている花について話しだす紬の声を、万里は一つひとつ丁寧に拾っていった。花の名前を紡ぐ紬のくちびるをちらと一瞥し、それからすぐに離す。放った視線は、広大とはいえないまでもそこそこの面積のある中庭全体に向けられ、視界の端で紬の白くてほそい指が動くのが見えた。
マグカップにくちづけ、コーヒーを啜りながら紬の声を耳で味わう。コーヒーの苦みと紬の声のあまさが混じり合い、鼓膜を心地好くくすぐる彼の声を、ああ、やっぱすきだ、と万里は思う。この声をずっと聞いていたい。できれば、誰よりもちかい場所で。
「……こうしてると、何だかいつものカフェにいるみたいだね」
向けられた紬の視線を受けて、万里は、そーっすね、と低く返した。都合があう時にふたりで行くカフェでの時間に、今はとてもよく似ていた。時間がゆったりと流れ、しずかで、紬の声が心地好く耳を滑る。
「紬」
ふいに背後から声が掛かり、万里と紬は同時にふり返った。談話室のドアのところから、ジャージ姿の丞がこちらに向かって歩いてくる。ああ、と紬は声をこぼし、丞に向かって手のひらを振った。
「おかえり、丞」
「ああ。……おまえ、まだ作業してたのか」
呆れたように言う丞に、紬は笑って、「丞だって、ずいぶん遠くまで行ってたんだね」。
「二時間ちょっとだ」
「だいぶ走ってるよ、人のこと言えない」
とうとつにはじまったふたりの会話に入れず、万里は黙ってコーヒーを咽に流しこむことしかできずにいた。紬のことばと丞のジャージ姿から、彼がランニング帰りであることはわかった。息は整っているが、額からは拭いきれなかった汗がしずくになって落ちている。
「丞さん、走ってきたんすか」
窺うように問えば、丞は手の甲で額を拭い、「ああ」と短く応えた。
「この暑い中作業して、また倒れても知らんぞ」
「へいきだよ、風はもう涼しいし。万里くんにコーヒー淹れてもらったし」
ね、万里くん。ふいに送られた視線に、万里は狼狽した。
「ああ……、はい」
「万里くん、コーヒー淹れるの上手なんだ。すごく美味しい」
マグカップを軽く持ち上げて、紬はへらっと笑った。その、あまりにも無防備な笑みに、万里の心臓はごとりと音を立てる。
紬のそんな顔を、これまでにもなんどか見たことがあった。
無垢で、無防備で、いかにも何も知らないといったふうな表情で、この人は笑う。その笑みを見る時、万里の胸はひどく騒ぎ、ことばにならない感情が噴き出しては全身を駆け巡るのだった。
そーゆーのは、ずるい、んじゃねーの。
先ほどまでほどよいと思っていたコーヒーの苦みが、ふいに舌の上に拡がって万里の眉間に皺をこしらえる。息を深く吸い、酸素を取りこもうと努めるのに、咽のあたりで空気が引っ掛かって落ちていかない。すべては錯覚であるとわかっていても、呼吸の上手くできない事実に万里は苛立ちを感じずにいられなかった。
ことばを交わすふたりの姿は、日常的によく見る風景だった。無二の幼馴染みという関係性を傍から見ても理解できる、余計なことを言わなくとも通じあえ、そこに遠慮はなく、堅実な信頼関係ができている。紬の声からもそれは、わかった。
羨ましい、と、万里は心中で呟いていた。羨ましい。丞さんが羨ましい。羨ましいっつーか、ずるいっつーか、なんか、わかんねぇけど、なんかそーゆーの。
湧き上がったそれが単純な嫉妬であることを自覚しながらも、感情を抑えることは難しかった。その程度には万里はまだ幼く、未熟な存在だった。
羨ましい、なんて、思ったのはもしかして生まれてはじめて? 誰かを羨ましい、なんざ。紬さん、めっちゃ笑ってる。丞さんとしゃべる時はいつもそうだけど、すげぇ楽しそうに。……当たり前っちゃ当たり前、か。
「……ほどほどにしておけよ」
いくつかのことばを交わしたのち、丞はそう言って踵を返した。シャワーでも浴びてくるのだろう、ジャージの前をくつろげつつ談話室を横切っていく背中を、紬と万里はしばらく黙って見つめていた。
「……心配性って治らないものなんだね」
ぽつりと呟いた紬は、マグカップにくちをつけながら眉を下げてみせた。
「紬さんが心配かけっからっしょー」
感情を覚られないよう、ふざけたように言えば、紬は不本意そうに唇を結んで、
「俺、そんなに丞に心配かけてないよ?」
「やー、丞さんにとっちゃ紬さんの何もかもが心配なんじゃないっすか」
ことばを紡ぐほどに心臓は、みしみしと音を立て、痛いほどに胸を締めつけていく。ほんとうはこんなことを言いたいわけじゃない、ほんとうは、俺は紬さんのことがすきで、丞さんとのあんなやりとりにさえ嫉妬して、ばかみたいにくるしいんだって、言いたい。丞さんとの関係が羨ましくってしょうがないって、言ってやりたい。
首筋を風が通り過ぎていく。秋の香りを孕んだそれは、涼やかで、どこか郷愁を感じさせるものだった。鼻先をくすぐり、中庭を駆けるそれに万里は目を眇めた。
先だって名前を説明された花々が風に揺らされ、首を震わせるのを視界が捉える。その視界がごく微かに、水滴に歪んだ気がして万里は慌てて目をこすった。