「んっ……ふぅっ……」
 紬の鼻にかかった声が耳に入るたび、従順に硬くなっていく下半身を誤魔化すことを万里は疾うに諦めていた。立てた両膝のあいだにからだを割り入れて舌を執拗に吸ってくる紬の肩に添えた手のひらに、彼の体温の高さが伝わってくる。
 ――あっちぃ……、
 紬のからだがこんなに熱くなるのは、セックスをする時だけだということを万里は知っている。ふだんは驚くほどに低い体温が、する時に上昇して熱を伝えてくるのを感じると、ああ紬さんも昂奮してるとわかって万里は嬉しくなるのだった。セックスをすることをけっして厭がっていない、むしろ喜んでくれていることが万里にはたまらなく幸せだった。
 照明を落としたビジネスホテルの部屋は薄暗く、夜闇に慣れた目がかろうじて互いの輪郭を捉えている程度で、絡ませた舌どうしと触れあっている手のひらが離れてしまえば途端にふたりの関係が千切れてしまいそうな、そんな錯覚を与えてくる。間接照明だけでも点けたいところだったが、恥ずかしいからという理由で紬に却下された。何それ可愛い。っていうか恥ずかしいとか言って、暗くなった瞬間あんためちゃくちゃエロくなんじゃん。万里は心中でつっこみを入れつつ、くちの端に苦笑を滲ませて紬の唇に唇を重ねた。すでに熱く、湿ったそこに幾度かキスを落とせば、紬のほうから唇を開き万里の舌を誘った。それ、そーゆーとこ、ほんとズルい。招かれるまま舌を差し入れて口蓋を舐め、歯列をなぞる。とろりとした唾液がこぼれ落ち、顎を伝う。

 カフェで時間を共有したあとにホテルに向かうというコースが、ふたりのあいだで当たり前のものとなってからどれくらい経つだろう。頭の端に引っ掛かるその思考を万里はずいぶん前から放棄していて、はやく抱きあいたい、はやく紬さんのからだに触れたいとそればかりを思いながらホテルまでの道を歩く。
 手を繋いでホテルに向かう時間、紬はいつも口数が少なくなる。俯き加減で歩く紬の横顔を観察しながら、やっぱりほんとうはこの人は、セックスなんかしたくないんじゃないのかとふいに不安が過ぎる。恋愛経験に乏しく、だから当然、そういうことについても疎い彼を、無理に誘っているのではないか、と。
「……やっぱ、したくねぇ?」
 ある日の道中、万里は問うたことがある。歩を止めて、紬の怪訝な瞳を受けとめた時、きょうはもう寮に引き返そうと万里は思ったのだった。透明な瞳が微かに揺れているのを見て、不安で心臓がぎゅうと痛んだ。無理に誘っていることで、紬に幻滅されたり、嫌われたりすることが、今の万里にとって何よりの恐怖だった。
「どうして?」
 紬は頬を緩ませて、そう言った。低くおだやかな声だった。「万里くんは、したくない?」。
 それはこっちの科白だっつの。質問に質問で返されて、万里は答えに窮した。唇を結んでいると、紬は万里の顔を真っすぐに見つめて、
「万里くんは優しいね」
 平らかな口調で、そう言った。
「は? なんで」
「俺に気を遣ってくれているんでしょう」
 紬の手が伸び、万里の頬にやわらかく触れた。長く細い指が頬を滑ると、こそばゆさに体温が上がる。
「べつに気ィ遣ってるわけじゃねぇけど……」
「でも、俺のことを考えてそう言ってくれてるんでしょ」
 だから、ありがとう。紬はそう言って、へらっと笑う。
「したくないなんてことないから、だいじょうぶ。ただちょっと緊張してるだけで……、ごめんね」
 緊張。紬のことばをくちの中で反芻させる。緊張、させてるのか。ざらりとした罪悪感が心臓を舐め、万里は頬に触れていた紬の手を握った。いつもより微かに高い体温を感じる。そのまま指を絡ませれば、応えるように紬も手を握り返してくる。
「……俺だって、はやくもっと万里くんに触りたい」
 目を伏せ、蚊の鳴くようなちいさな声で紬がそう言ったのを、万里は聞き洩らさなかった。か細く吐き出されたことばに今すぐこの場で抱きしめてしまいたい衝動が襲うのを堪え、万里は紬の手をつよく握って歩みを再開させたのだった。

 緊張している――、紬はそう言った。それはそうだろう、男が男を受け容れるのだ。本来、そういう役割を担ってはいない場所に挿入されるということは、受身の紬にとってはすくなからずの覚悟を伴うものだった。からだへの負担を考えれば当然のことだと万里も理解できる。紬は、しかしいつだって万里を受け容れる。唇を重ね、唾液を絡ませていけば、途端に紬の目はとろりと蕩け、はやくはやく、と万里を求める。それを、ずるい、と万里は思う。緊張しているなどと言いながら、行為が始まればその糸はたやすく千切れ、互いに熱の交換に没頭する。
 ――エロい、
 ちゅ、ちゅ、とリップ音を響かせながらキスをくりかえして、蕩けていく紬の瞳を眺め万里は思った。ほんと、大概ずりぃし、エロい人。
「ばんりくん、」
 息継ぎのあいまに名を呼ばれて、はい? と律儀に返せば、唾液に濡れた唇を半分ほど開いた紬が、物欲しげに腕を伸ばしてきた。背中に廻された腕にちからを感じ、どうしようもなく胸が苦しくなる。求められている、という事実を知り、たまらなくなって万里は紬のからだをベッドに押し倒した。男二人分の重みでスプリングが軋み、それでもくちづけはやめられずになんどもキスを降らせた。髪の毛、額、瞼、鼻の頭、頬、耳朶、唇、首筋。鎖骨に到達したところであまく歯を立てると、紬の咽の奥から微かに声が洩れた。これ、紬さんすきなんだよな。軽く、甘噛みするみてーに、歯ァ立てんの。
「痛い?」
 ちいさく問えば、ふるふると首を左右に振って、「痛くないよ」と紬は言う。「痛くないから、もっとして」。
 本能に従った可愛らしい懇願に、じわりと全身の熱が上がる。ああ、もうめちゃくちゃに抱きてぇ。両の頬を挟みこんで唇を吸い、ふたたび鎖骨を噛んだ。んん、と声が洩れると同時に、紬の性器が硬くなるのを太腿が触覚した。
 紬さん、感じてる。服越しに膝を性器に押し当てると、逃げるように腰が動き、すかさず追いかける。
「……勃ってる」
 耳もとで囁けば、紬の顔がまっ赤に染まった。すり寄せた頬に体温が伝わり、愛おしさで気が狂いそうだった。
 セックスをおぼえたのは、いつだったっけ? 紬の耳朶を食みながら、万里は遠い記憶を掻き混ぜた。攪拌したのちに浮かんできたのは、中学の終わりに、当時つき合っていた女子とはじめてセックスをした記憶だった。つき合っていたといっても、万里にそのつもりはなく、つるんでいた女友だちのうちの一人が一方的に“それらしい”雰囲気に持ちこんだだけだった。
 自慰行為の延長のようなセックスは、たしかに気持ちがよく、射精したが、万里の心には何も残さなかった。彼女の顔を、今ではもう輪郭さえ思いだせない。好奇心と虚栄心が行為に走らせただけの空っぽなセックスだった。
「……万里くん?」
 ふっと掛かった声で万里は我に返った。紬の指が頬に触れている。体温の上がった湿った指先は心地好く、万里の頬をあやすように滑る。
「どうかした?」
 見あげてくる紬の瞳には怪訝と、不安の色が浮かんでいて、ああ、と万里は浅くため息をついた。なんできゅうにむかしのことなんて思いだしたんだ。
「悪ぃ、なんでもねー」
「だいじょうぶ?」
 紬の指が万里の輪郭をなぞるのを、目を眇めて感じた。触れられているというだけで気持ちがよくて、万里もまた紬の頬を手のひらで撫でた。
 今、押し倒している相手は自分とおなじ男であり、これからする行為は世間に異和感を与えるものなのだろう。同性同士の性行為にたいして、世の中は未だ閉鎖的だ。万里にはそれがひどく腹立たしく、中指でも立てたい気分になる。うるせぇな、世間体なんて知らねー。目のまえの人間が愛しく、恋しく、欲しくてたまらない。そう思うことの何がいけないのか、想うことの自由をなぜ束縛されなければならないのか。
 紬の鼻をやわらかく食めば、くすぐったそうに笑う震動を感じる。肌の表面はしっとりと湿り、触れあわせた箇所から火照りを伝えてくる。それら一つひとつが愛おしくてならず、手のひらを紬のシャツの裾に滑りこませ、胸の突起に指を這わせる。「あっ」と上擦った声が聞こえたが、構わず先端を指のひらで捏ねれば咽の奥でこらえるような呻き声が洩れて万里はくちもとを緩めた。
「気持ちいい?」
 直接的な表現をもちいて問いかけると、紬は首を縦に動かした。そのすなおな反応が嬉しくて、突起を抓んでさらに声を上げさせる。
「ひっ、」
 腰が浮き上がり、紬の性器が硬度を増した。
 俺の動きいっこいっこに感じてくれてる。気持ちいいって思ってくれてる。そう思うと、もっと紬を気持ちよくさせたい、ふだんは聞けない声を上げさせたいという欲が燃え上がるのを感じた。
 シーツに横たわる紬を見下ろし、荒くなっていく呼吸と心臓の音を聞く。昂奮している、俺も、紬さんも。肌の温度や湿度、漂う気配にそれを感じ、下着の中で性器が存在を主張した。
 頬を寄せ、呼吸を絡めながらじょじょに体重をかけていく。自分の重みで紬が潰れてしまわないように、両の手でからだを支えていたが、ふいに紬の腕が背中に廻り、咄嗟のことに万里は肘のちからを抜いてしまった。
「う、わっ」
 ぴたりと重なったからだは、紬の腕によって抑えつけられ、それは然程つよいちからではなかったが、引き剥がすことをゆるさなかった。
 抱きしめられるかたちとなったことに万里は躊躇いながら、応えるように紬のからだを抱きしめかえす。
「……紬さん、潰れちまいそう」
 ちいさく笑ってそう言えば、万里の胸もとに唇を寄せた紬がくぐもった声で、うん、と頷いた。
「潰してくれても、いいよ」
 かんぜんに顔が隠れ、紬の表情を窺うことはできない。けれど、鎖骨にぶつかっている額の温度から、顔をまっ赤に染めていることはたしかだった。
 可愛い、と万里はすなおにそう思った。抱きしめてくる腕も、押しつけられる額も、こもった声も、すべてが可愛くて仕方がなかった。愛しさが胸に湧くと同時に、痺れるようなあまいせつなさがこみ上げて、万里は紬のかたちのよい額にやわく歯を立てた。
 
 他人との交際というキャリアにおいて、紬に比べれば自分はいくらかは積んでいるのだろうという意識が万里にはあった。学校での交友関係は広く、つるんでいた仲間のうちには女子もいて、言い寄ってくる相手もすくなくなかった。そのうちの何人かとはいわゆる“おつき合い”をして、実際に寝たこともあった。年のわりには早熟であったと自覚している。
 つぷつぷと肉を裂きながら紬の体内にからだを沈めていく感覚は、今まで何度も味わったものであるのに、まるではじめてのような快感が背筋を這い万里は咽の奥で呻き声を上げた。性器に纏わりついてくる体温と湿度が気持ちいい、夢中で腰を進めていけば、動きのあいまに紬のくちから声が洩れ、快楽をさらに加速させていく。
「つむぎさん、」
 耳朶を食んで名前を鼓膜に押しこむ。紬は応えるように万里の背中に廻した腕にちからを入れ、ぎゅうと肌と肌を密着させてくる。そんなに縋りつかなくても逃げやしない、とおかしく思いながら、必死でからだを寄せてくる紬を愛おしいと、心底から感じた。
 はらりと落ちてきた髪の毛を耳に引っ掛け、紬の唇にキスを落とす。熱っぽい皮膚は湿り、ゆるく空いたすきまから舌が伸びてきて万里の咥内を求めた。熱い舌だ。それを吸い、唾液を絡ませていけば紬の潤んだ瞳が万里を映す。
 くるしげな表情をこしらえた自分がそこにいた。
 こんなふうにつよく誰かと抱きあった経験が、かつて自分にあっただろうか。万里は紬の瞼を唇で塞ぎ、押し寄せては引いていく快楽のまにまに思考した。目のまえの人間が欲しくて欲しくてたまらなくて、気が狂いそうなほどに求めてやまなかった経験が。
 十七年という短い人生の中で、“おつき合い”をした人間の数は両の手を合わせても足りない。きっと。あんまり憶えてないけども。三ヶ月続いた関係もあったが、一週間で自然消滅したケースもあった。こーゆーのってどこまでカウントしていいんだ? つき合ってほしいと言われて、いーよって返事と同時に彼氏彼女になって、手を繋いだりじゃれ合ったり、でも、それで、ちゃんと恋人だったって言えんのか。
 紬の瞼が持ち上がり、万里を捉える。動きに揺らされながらもこちらを見つめる瞳は真っすぐに万里を射抜き、手のひらが頬を滑った。
 ばんりくん、と紬の唇が動く。声にならない声は、けれど鮮明な輪郭を持って万里の耳を打つ。汗のしずくが耳の裏を伝い紬の顎の上に落ちた。ふふっと紬が笑った。
「……なに?」
 顔を近づけて、鼻と鼻とが触れあうほどに距離を縮めて問えば、紬はあまい息を吐いて、
「なんか、すごいな」
 と、呟いた。
「何が」
「ここからだと、万里くんしか見えないんだよ」
 そう言って、水の膜の張った瞳をおおきく動かした。きれいな翡翠色に映りこんだ自分は、まるでそこに囚われているかのようだった。
 ああ、と万里は紬の瞳に映る自分を、目を眇めて見つめた。この人はいま、マジで俺のことしか見えてない。この人の目には俺しか映っていない。
「万里くんでいっぱいだ」
 あくまで無邪気な態で紬が言うのに、万里は深いため息をついた。
「あのさぁ、紬さん」
 なあに、と、紬はのん気な声で答える。
「あんまそーゆーコト、言わないでくんね?」
 額を紬の鎖骨に押しつけると、肌の深いところから紬の心臓の音が聞こえてくる。とくとく、とくとく、と音を鳴らすそこを探るように耳を欹て、息を吸った。
「……そーゆー、嬉しいコト」
 目の淵がじんわりと熱を帯びていくのを万里は触覚していた。ヤバい、なんか、ちょっと泣きそうだ。顔を見られたくなくてより深く額を沈めると、頭を紬の手のひらがやわらかく撫でた。ゆっくりと上下するその動きが優しくて、よけいに万里の涙腺を刺激する。
「ほんとうのことだよ」
 視界も、からだの中も、万里くんでいっぱいで、万里くんしかいないみたい。空気に溶かすような発声で、紬は言った。
 そんなことを言われたのは、生まれてはじめてだった。
 いつだって隣に誰かがいて、いつでもどこからか名前を呼ばれて、手を伸ばせばすぐに体温があって、でも、ほんとうに求めたかったのはそのどれでもなかった。伸ばした手が空虚を掴むあの感覚は、背筋が凍るほどに寒いもので、空っぽの手のひらを見下ろした時の渇いた感情を今でもはっきりと憶えている。憶えているからこそ、今の目のまえの存在が特別に思えてならなかった。
 与えられた水はあまりにも清潔に磨かれ、かさかさに渇いた心にゆっくりと浸みこんでいった。
 まなじりからぬるい液体があふれてくるのを、もう止めることはできなかった。情けねぇ、と自嘲しながら、でもここには紬さんしかいない、紬さんにしか見えてない――そう思うと、涙はたやすく膨れ上がり、頬を伝った。泣いていることに気づいているのかいないのか、わからない調子で、紬は万里の頭を撫でつづけていた。


「万里くんの初恋って、いつ?」
 散々熱を交わしあったからだをシーツに横たえ、指先で万里の髪の毛を玩びながら紬は言った。視線を送れば、こちらに顔を向け、わずかにくちもとを緩めた紬のおだやかな表情が窺えた。手を伸ばして枕もとの灯りを探り、スウィッチを入れると、放たれた光に眩しげに目を細める。その、些細な仕草さえも妙に愛おしく思え、万里は上体を傾けて紬の肩を抱く。
「何、きゅうに」
 すこしの間を置いてから問い返す。質問の真意がわからず、多少なり動揺をした。紬は、しかしいつもと変わらぬ
様子で、「初恋」、と単語をくりかえした。
「万里くん、俺よりずっとたくさん恋してきてそうだから」
 そんなことない、と万里は心中で反駁した。
「わかんねーよ」
「憶えてない?」
「や、ってゆーか、なんか、」
 紬の言うところの“恋”とやらが、“純粋な恋”というものならば、万里の記憶にはないものだった。存在しているのは、若さゆえの熱を持て余していた苛立ちと、纏わりついてきた女たちの湿っぽい肌の感触だけで、それを“恋”と呼ぶにはあまりにも幼稚すぎる気がした。
 頭を枕に沈め、紬の瞳を覘きこむ。初恋。そんな可愛いものを、俺はたぶん、いままで知らない。
「……いま、とか?」
 え? と紬は目をまるくさせる。万里の言っている意味がまるでわからない様子で、「いま」と、唇を動かした。
「そ。俺の初恋って、いま、じゃね?」
 いま、目のまえの人間にしている恋が、初恋というやつなのかもしれない。紬の額に額をすり寄せて、やわらかい唇にキスを落とす。嘘でしょう、と紬が言うのに、嘘じゃねーし、と答えれば、浅く息を洩らして紬は笑った。
「俺、いままでガチの恋愛とかしたことねーかも。誰かとつき合ったことはあっけど、ぜんぜん面白くなかったし」
「そうなの?」
「ってかこーゆー話、紬さん、嫌いそうだけど」
 思いのままに話すことで、紬が自分にたいして幻滅する恐怖があったが、万里の唇は止まらなかった。
「すきとか言われて、つき合って、でもぜんぜん長続きしなくて別れて、っての、けっこーくりかえしてて。……そーゆーの、ちゃんと“恋愛してる”って言わねぇよな、きっと」
 紬の肩口に顔を埋める。汗に混ざって、微かな精液の匂いが鼻先を掠めた。
「あっちから告ってきたのにフるのもたいていあっちからだったし、俺も俺で、べつにそれでいーやとか思って。深追いしたいとかぜんっぜん思わなかった。何の執着もなかった。でもそれはお互い様ってやつだったんだよな」
 何がよかったのかわからない、と、いつだったか別れる直前に言われたことがあった。そのことばに万里は激昂したが、相手に向かって声を荒げることはしなかった。去っていく後ろ姿に中指を立てて、それで、終わった。ふざけんなしバーカ、死ね。くらいは心の中で呟いた気がする。未練も執着も感じず、たったすこしのあいだの“おつき合い”を思いだして感傷に浸ることもなかった。
「……空っぽだったんだよなぁいま思えば、マジでさ。あっちも、俺も」
 紬は黙って万里の声に耳を傾けていた。ときおり、相槌をうつように指先が万里の髪の毛を撫で、その感触はあまく、ひどく心地よかった。
「そうなんだ」
 しばらくの沈黙ののち、紬は呼吸とともにことばを吐いた。やわらかく、優しい発声だった。万里は上目で紬を見やり、「引いた?」と問うた。紬は首を振る。
「そんなことないよ」
「でも紬さん純粋だからさあ、こーゆー、なんか不純っぽいのすきくない感じじゃん」
「俺、そんなに純粋でもないと思うけどなあ」
 そうして、くすくすと笑う。紬の表情はおだやかで、あくまで傾聴しているといった態を崩さない。その姿勢に万里はいくらか安堵をし、あまえるようにからだを寄せた。
 「だから」、と万里は言った。
「俺の初恋は紬さん、ってこと」
 我ながら恥ずかしいことを言っていると思ったが、おそらくは本音だった。しょうじきにすべてを告げ、それでもなお万里をつきはなしたりしない紬を、ありがたいと思う。抱いている肩がすこしずつ冷えていくのを感じながら、紬の鎖骨に鼻を押しつけ、深く息を吸った。薄い肌の下から、とく、とく、とく、と微かな心臓の音が聞こえてくる。その乱れのないリズムが耳を打つたび、心が満たされていくようだった。
 紬の手のひらが動き、万里の前髪を掬った。あらわになった額にくちづけられ、一瞬、からだが震える。耳朶の裏がわずかに熱を持ち、それでも、紬はキスをやめなかった。
 「ありがとう」と紬は万里の耳もとで囁いた。
「なにが」
「俺が万里くんの初恋なんて」
「……ほんとのことだし」
 ふふ、と紬は笑った。そうして、万里の頭をゆるいちからで抱きかかえる。
「すごく、嬉しいな」
 くすぐるような声で紬が言うのを、万里は目を閉じたまま聞いていた。あまく、やわらかな声はからだの深いところに落ちていき、土が水を吸収するように静かに浸みこんでいく。
 そんな感覚を、万里は生まれてはじめて知った。
「万里くん、眠たい?」
 目を閉じている万里の頭を撫で、紬は言った。万里は首を振り、
「できればも一回やりたい」
「ええ……、すごい、若いなあ」
「でも、もーすこしこのままでいたい、かも」
 紬を抱きよせ、肌と肌をつよく密着させる。こんなあまえてるみたいなの、誰にも見せられない。紬さん以外の誰にも、ぜったいに。
 窓の外を通り過ぎていく車の音が、静謐な空間を駆けていく。夜に沈んだこの部屋には、ふたりしかいない。何もかも、ふたりにしかわからない。薄く瞼を持ち上げると、狭い視界の中に紬の顔が浮かび上がり、ああほんとうに、ここからじゃ紬さんしか見えねぇ、と万里は思った。