抱きしめたい、キスをしたい、その先が欲しい。そんなガキらしい地団駄を踏む俺の手を、紬さんははらっと笑って握り、「そういうのは、二年、待ってからにしよう」と言った。その言葉が俺にとってどれほど残酷なものかわからないはずがないくせに、何も知らないという顔をして、あの人はそう言ったのだった。
俺が十八になった日の夜、俺の隣にいたのは紬さんだった。俺に顔を向けてすうすうと穏やかな寝息を立てるこの人が、とうに成人した大人の男であることが信じられない。そのくらいに紬さんの顔は幼かったし、あまりにも無防備すぎた。
ビジネスホテルの部屋はすべての照明を落としていたけれど、夜闇に慣れた目はしっかりと紬さんの輪郭を捉えていた。手を伸ばせばすぐに触れられる距離に紬さんはいて、それなのに、何をするでもなくただただベッドにからだを横たえている。ばかみてぇ、と俺は心の中で自嘲した。ばかみてぇだな、俺も、紬さんも。
そもそもどうしてこんなことになったのか――思考を巡らせて、辿り着いたのは数時間まえにした俺の惨めな告白の瞬間だった。
すきだ、と告げた時の紬さんの顔がまなうらに甦って、俺の心臓をちくちくと刺す。目を細め、持っていたコーヒーカップを静かにソーサーに戻して、そうして、「ありがとう」、と紬さんは言ったのだった。
「ありがとう、て」
行きつけのカフェのいつもの席には、淡い照明が落ちていてテーブルの上にまだら模様を作っていた。金曜日だというのに、時間が時間だからか、客は少なく、互いの所作の一つひとつの音がやけに鮮明に耳に入ってくる。コト、と軽い音を立ててソーサーに置かれたコーヒーカップの暗い水面を一瞥し、すぐに紬さんに視線を移す。
ありがとうて。紬さんの返答に俺は顔を顰め、すかさず「何、それ」と追求する。
「俺、本気で言ってんだけど」
紬さんのことがすきだと、恋人にしてぇって意味ですきだと、ずっと伝えたかった。伝えたくて伝えたくて、でも伝えれば紬さんが困ると思って、この日まで我慢していた。俺が十八になる日。あと五時間とちょっとしたら、俺は一つ年をとる。まだ未成年と言われるトシだけど、十八になれば紬さんも俺をガキ扱いしなくなると思っていた。四輪の免許も取れるし結婚もできる。ある意味で節目の年だ。
目のまえの紬さんはまなじりを下げた穏やかな表情で、「知ってるよ」と言葉を吐いた。「万里くんが本気だってことは、ちゃんとわかってるよ」。
「……っていうかあんた、俺があんたのことすきだってこともわかってたんだろ」
「うん」紬さんはふふっと笑った。「やっぱりバレてた?」
はあ、とため息がこぼれ落ちる。紬さんの、こういうところが俺は嫌いだ。こっちがガキだと思って、なんにも知らないみたいな顔してそのくせなんでもわかってる。俺から言葉を引き出させて、俺の反応のいちいちを楽しんでる。悪意なんかまるでなくて、その心根の優しさを知っているからこそ、タチが悪い。
「ずりぃ大人」
なにも言えなくなってしまった俺がひと言洩らせば、紬さんは睫毛を伏せて、それからふたたび視線を俺に向け、「ごめんね」と、言った。
稽古が終わり、夕食も済んだあと、ふたりでこっそりと寮を脱け出して、茶をするのがいつからかの慣例になっていた。夜に訪れるカフェは居心地が好い。静かで、まるでふたりきりの世界を切り取るみたいで、いつまでもいられる。そんな気がした。それなのに、今夜はどうにも、落ちつかない。空気全体が俺を圧迫してくるみたいで、目のまえの紬さんさえも非現実的な輪郭を持ってるみたいに存在が曖昧だ。それもすべて、俺が無謀な告白をしたせいかもしれないのだけれど。
テーブルの上のコーヒーがどんどんと冷めていくのを視界の片隅で観察しながら、俺は、さてどうしたもんか、と考えを巡らせていた。目のまえのずるい大人は、十八のガキに告白されて、ありがとうとか言って、ごめんねとか言って、明確な返事を寄越してこない。ごり押しすれば紬さんは、万里くんはしょうがないなあなんて言ってつき合ってくれるかもしれないけれど、無理やりつき合ってもらうことになっても俺はぜんぜん嬉しくなかった。そんなのはチュートリアルをベリーイージーモードでクリアするくらい、俺のプライドを傷つける。俺が望んでいるのは、紬さんの好意だ。紬さんも、俺のことがすきだっていうはっきりとした答えだ。
はぁあ、と深いため息をこぼしてテーブルに顔を伏せる。つむじのあたりに紬さんの視線を感じる。そんな視線じゃなくて、返事をくれよ。咽もとに引っ掛かった言葉を飲みこんで、やっぱり告白なんて時期尚早だったか、と後悔がざらりと心臓を舐めた。
「万里くん」
頭の上から紬さんの声が降ってきて、俺は視線を上げる。淡い光に縁どられた輪郭がまぶしくて目をほそめた。窓際の席は紬さんのお気に入りで、ふたりで訪れる時はいつだってこの席を指定する。席に坐ると、紬さんはまず窓から外を見やって、きょうの出来事をすこしして、それからメニューを俺に手渡してくれる。俺の注文はだいたいいつも決まっているから、すぐに紬さんにメニューを返し、きょうはケーキセットもよくね? とか、おススメ聞いてくっか? とか、紬さんといっしょにメニューを覘きこむ。
紬さんにすこしでも楽しんでほしくて、心地好いと思ってほしくて、あれこれと工夫を凝らす俺が、紬さんにはどう映っているのか知らない。好意を向けていることは伝わっていたというけれど、この人のほんとうのところが、俺はいつまで経ってもわからなかった。
それが、ひどくかなしく、腹立たしかった。
「万里くんが俺のことをすきって言ってくれて、嬉しかったよ」
低く、平らかな口調で紬さんは言った。それは知ってる、ありがとうって、さっきあんた言ったもんな。手の甲に顎を載せた態で紬さんを見つめ、ん、と咽の奥で返事をした。
「俺も、万里くんのことがすきだよ」
紬さんのことばが、重く心臓に圧し掛かった。ああ、これだめなやつじゃね。言葉の先の展開が読めて、瞼の裏がふいに暗くなる。紬さんは両の手を合わせて指を絡め、目を伏せた。浅い吐息が指の透き間から洩れる。
「でも、まだつき合うとかはできないね」
ほらきた、と、頭の冷静な部分が理解して、けれどその反面、苛立ちが背骨のあたりを這いあがってきた。なんでだよ、と心の中で俺は呟いた。せっかくこの日まで我慢してたっつーのに、なんでだよ。なんなんだよ、それ。
望んでいた紬さんの好意はしっかりと耳に届いたというのに、届いただけでは俺は満足できなかった。それだけではぜんぜん足りなくて、胸の深いところがつめたくなった。
「なんで」
しょうじきにくちにすれば、紬さんは「だって」、とくちごもる。だって、の先なんて俺は知ってる。俺が、まだ十八の小僧だから。
「俺がガキだから?」
紬さんは唇を結んで俺を見つめる。真っすぐな視線が痛くて、俺はまなじりが熱くなるのを感じた。クソ、ちょっと、泣きそうだ。
こんなことは、これまでの人生の中ではじめての経験だった。
すきだと誰かに告げたことも、思えばはじめてのことだ。告白はするもんじゃなくてされるもんだと思っていた。告白されれば相手の顔がちょっとよかったらつき合ってみて、お互いに冷めてきたらあっさりと別れる。そんなつき合い方しか俺は知らなかったし、こんなにも誰かを欲しいと、つよく思ったことはなかった。
「ガキ、ってことはないけど」
紬さんはあくまで静かな声音で言葉を継ぐ。「でも、年齢差がちょっとありすぎるよ」。
それがつまり俺をガキと思ってるってことじゃねーの。俺は瞼を伏せて、コーヒーカップを指先で叩いた。チン、という陶器と爪の触れあう渇いた音が鼓膜を震わせる。無意識の動作がまるでほんとうのいじけたガキみたいで、自嘲の笑みがくちもとに浮かんだ。
「ごめんね」
「謝んなくていーから」
「……ごめん」
思いがけずつよい口調になってしまったことを後悔する。ああ、これじゃマジでただのガキじゃねぇか。いじけて駄々を捏ねてるだけのただのガキ。クソガキ。自覚はある。けれど、自覚をすればするほど虚無感が襲ってきて、心臓がきりきりと痛んでしかたがなかった。
年齢差なんて、一生縮まることはない。俺が十八になれば紬さんも一つ年をとるし、追いかけても追いかけても背中に手が届くことなんてない。こんなにも近くに存在しているのに、あまりにも遠くて、めまいさえしてきそうだった。
「……ねぇ、紬さん」
しばらくの沈黙のあと、俺は唇を尖らせたまま呟いた。テーブルの上を這うようなせつじつな声だった。
「うん?」
「俺、いちおーあした誕生日なんだけど」
「うん、そうだね」
「あしたで十八なんだけど」
だから、告ったんだけど、とは言わず、言葉を続けてみた。「紬さんからの誕プレ、リクエストしていい?」。
紬さんはすこしだけ黙って、それから、いいよ、と言った。
「今夜、俺といっしょにホテルに泊まって」
言いながら、俺は何を言ってんだと思った。告白が玉砕したショックで、思考回路が切れてしまったとしか思えなかった。けれど吐き出してしまったことばは取りかえしがつかない。嘘、冗談、と言って笑う余裕もなく、俺はじっと紬さんを見つめた。
「なにもしねぇし、ただ一緒に寝るだけ。日付けが変わった瞬間に、紬さんに隣にいてほしーだけ」
ほんとうは今すぐ紬さんを抱きたいと思っていたけれど、つき合えないと言われた身でそれを望むのはさすがにまずいと思った。その程度の倫理観が俺の中にあったことに驚きつつ、紬さんの返事を待つ。
紬さんは俺の瞳を見つめて、何事かを考えているようだった。そりゃそうだよな、いくらなんでも頭のおかしいリクエストだし、仮にも告ってきた相手だ。手を出されるかもしれないっていう危機感があって当然だ。
「監督と左京さんに怒られるよ?」
紬さんは静かに言った。だろうな、と俺は心の中で答えた。
「でも紬さんが連絡入れてくれれば、たぶんだいじょうぶ」
「そうかな……」
「俺も十八なるし、紬さんはとっくに成人済みだし。べつに一晩の外泊くらい……」
言葉は、尻すぼみになって消えていった。遠まわしに断られている気がして、必死で食いついているじぶんが惨めに思えた。
あすの朝は稽古の予定はない。連絡を入れて、あすの昼頃に帰れば特に問題はないはずだ。帰ったあとで左京さんからひと言ふた言なにかを言われるかもしれないけれど、右から左に流せばいいし。
でも、と、俺はテーブルに置かれている紬さんの白い手の甲を見た。この人は、たぶんぜんぜん気が進まないだろう。同室の丞さんのことを考えているのかもしれない。そう思うと、胸のうちがざわっと騒いだ。
沈黙がふたりのあいだを満たす。視線さえも、ひとところに留まって動かせない。
ああ、だめだな、と思ったつぎの瞬間、紬さんはふと眉を下げて笑い、「いいよ」、と言った。
「いいよ、それでプレゼントになるかはわからないけど」
そうして、拳を作っていた俺の手ににわかに触れた。つめたい指先の温度が心地好かった。
宥めるように、あやすように、俺の手を撫でる紬さんを、しんそこ憎く思った。たやすく触れてくるくせに、その先をけっして与えてくれないずるさが、腹立たしかった。
それでも俺のささやかな願いを聞いてくれる優しさが、じんわりと嬉しかった。
「なんもしねーから、約束すっから」
俺は腕の中に顔を隠して、自分に言い聞かせるようにそう言った。
片肘をついて、ななめ上から紬さんの寝顔を見つめていると、今のこの情況がほんとうに意味がわからなくて混乱してくる。告白をして、互いにすきだということも確認しあって、なのに年齢がどうのという理由でお断りをされて、それなのに、ビジネスホテルのベッドにふたりで横になっている。言い出したのは自分だけれど、あまりにもシュールな現実に頭がくらくらした。
紬さんの寝顔は無防備で、何をしても大丈夫そうな気がしていた。額に触れても、キスをしても、その先に進んでも。でも俺は手を伸ばすことはせず、おとなしく目のまえの人物をただ眺めている。どんだけ従順なんだよと思う。
ん、と紬さんが身じろぎをして、俺は一瞬身を硬くした。そろそろと瞼が持ち上がり、紬さんの瞳が俺の存在を捉える。
「ばんりくん、」
掠れた声でそう言って、眠そうな瞼を指で擦った。それからちいさなあくびを一つ、洩らす。
「悪ぃ、起こした?」
なんもしてねぇけど、と付け加えると、わかってるよ、と紬さんは笑った。
「ずっと起きてたの? 万里くん」
紬さんはからだを俺のほうに向け、静かに問うた。
「うん」
頷けば、そう、と言って、浅く息を吐き出す。
「今、何時だろ」
「二時過ぎ」
ホテルに入り、互いにシャワーを浴びてベッドに横になったのが十一時、それからの一時間、カフェでのことがまるでなかったかのような他愛のない会話をして、0時を迎えた。俺は十八になり、その瞬間に紬さんは俺に「おめでとう」と言ってくれた。ベッドに並び、顔と顔が触れあいそうな距離で伝えられた言葉に、頭の奥がじん、と痺れた。
「紬さん、いくらなんでも無防備すぎ。のんきに寝てさ」
冗談めかして言えば、紬さんは伸びをして、
「そうかな」
と、言った。
「襲われたらどーすんだよ」
「なにもしないって、万里くん約束してくれたから」
「まあそーだけど……」
約束はしたけれど、守るとは言ってない。そんな屁理屈を言いそうになったけれど、咽の奥に飲みこんだ。
「紬さんとの約束は、破りたくねーから」
本心からの言葉だった。何もしないと約束した限り、俺は紬さんに手を伸ばさない。頬を撫でて、髪に触れたいと思っても、衝動はすべて押しとどめて、ただ側で見つめるだけ。らしくねぇと思うけれど、くちにした約束を破ることで紬さんに嫌われるのはごめんだった。
紬さんはふ、と笑って、白い指を俺に近づける。たしかめるように輪郭をなぞり、髪の先を浚う指の動きを視線が追う。ずるいよな、と俺は思う。俺はこんなにも我慢してるってのに、紬さんは容赦なく俺に触れてくる。反射的に手を握りそうになったけれど、ぐっと堪えて、紬さんが俺の頬を撫でていくのをおとなしく受けとめていた。
「なんだか、泣きそうだね、万里くん」
指摘されてはじめて、瞼の下あたりが熱を帯びていることに気がついた。まばたきをすれば今にも涙がこぼれ落ちそうで、「そんなことねぇし」とぶっきらぼうに放ったものの、自覚した途端に瞳の表面が薄っすらと涙で覆われるのを感じてしまった。
「……誰のせいだって」
「自惚れかもしれないけど、俺?」
紬さんは目をほそめて言った。
「あんた以外に誰がいんだよ」
自惚れなんかじゃない、あんた以外に俺をこんなふうにできる人間なんていない。
紬さんの指が俺の顎に到達し、するりと落ちて首筋を這った。まるで試すような動きに、苛立ちが募る。
「そんな触られっと、困るんだけど」
「万里くんも、俺に触りたい?」
「あたりめーだろ」
触りたいどころじゃない、今すぐにでも抱きしめて、めちゃくちゃに抱きたい。一応はすきを伝えあったあいだがらなのに、俺ばかり我慢をしていることがばからしくなってくる。
俺は紬さんの手を握り、軽く引っ張った。さほどの抵抗もなく俺の唇に寄せられた指に軽くキスをすれば、紬さんは咽の奥で声を洩らし、ばんりくん、と、やたら甘ったるい声を発した。
「触ってきたの、紬さんのほうからじゃねーか」
苛立ちをぶつけるような調子で言えば、紬さんは頷く。
「万里くんは、俺を抱きたいんだね」
「……そりゃ、まあ、」
すきな相手を抱きたいと思うのは、男なら当然の感情だろう。紬さんもおなじ男なら、そのあたりは理解できるはずだ。キスして、抱いて、自分のものにしたいという欲を隠しきれず、俺は紬さんの指をあまく噛む。当り前だけれど何の味もしない、つめたい指先。
「めちゃくちゃ、抱きてー」
セックスをしたらあるいは、紬さんも俺のことをもうガキとは思わなくなるのだろうか。いや、そもそもそういう考えがガキ、なのか。だとしたらやっぱりこれ以上を求めるのはいけないことで、俺は、紬さんの指に自分の指を絡めて、くちもとから離した。
「……抱きてぇけど、我慢なんだろ」
頭を抱えたい気持ちになりながらそう言えば、紬さんは困ったように表情を崩して、うん、と頷いた。
「ごめんね、万里くん」
それからかたほうの手を伸ばして、宥めるみたいに、俺の頭を撫でる。「そういうのは、あと二年、待ってからにしよう」。
二年、という時間を想像してみる。俺がはたちになり、紬さんが二十六になった未来。それは途方もなく遠い世界に思えた。二年後、俺はふつうに大学に入って、大学生活を送っている。その姿は容易に想像ができたけれど、紬さんは? この人が二年後、どうなっているのかについてはまるで予想が立たなかった。芝居は続けている、たぶん。この人のことだから。でも、それ以外のことがまったくわからない。俺のことをすきと思いつづけてくれているのかも。
「ガキの二年と大人の二年の差って、でけーなあ」
ぼやくと、紬さんは目を細めて俺を見つめた。まぶしいものを見るようなまなざしだった。
「万里くんは、ガキなんかじゃないよ」
「ガキだよ。十八になりたてのクソガキ」
「十八歳は、もう、大人だよ」
なんでこの人は、こうやって俺をどんどんと傷つけるんだろう。唇を尖らせると、それに気づいたらしい紬さんは薄く笑って、俺の髪の毛に指先を絡ませた。
「紬さんって、ほんと、困った人だよな」
「そうかな」
俺の髪を梳きながら、まるでなんでもないように言う紬さんを、俺は心の底から憎いと思った。憎くて、憎くて、どうしようもなくいとおしい。
――こんな感情を他人に抱いたのは、きっと、はじめてのことだった。
「……なぁ、もいっこお願いがあんだけど」
紬さんは軽く顎を引いて、「なあに」と言った。
「手、繋いで寝てもいい?」
それは、懇願だった。紬さんを真っすぐに見つめて、俺はようやく言葉を放った。紬さんの瞳に映った顔の情けなさにうんざりとする。こんなカッコ悪ィ顔、見せたくなかった。この人の前では、いつも、カッコイイじぶんでありたかった。なのに、この人は、そんな俺の虚勢をたやすく暴いてしまう。
「いいよ」
紬さんはくちもとを緩めて、ベッドに横になった。そうして、俺に右手を差し出した。「はい、どうぞ」。
薄い手のひらにそっと触れる。つめたい、骨のかたちのわかる手だった。すり、と指の先で輪郭をなぞると、紬さんはくすぐったそうに笑った。
目を細めて俺を見つめる紬さんの瞼が、そろそろと閉じていくのを、俺はおとなしく見守っていた。やがて黒目が、薄い瞼に完全に包みこまれた頃、浅い寝息が漂ってくる。繋いだ手をそのままに、紬さんはゆめの世界に行ってしまった。
ため息を一つ、吐きだす。
「無防備」
俺はそう呟いて、紬さんの額に落ちた前髪を繋いでいないほうの指先ではらう。むきだしになった白い額はなだらかなラインを描いていて、俺はそこにそっと唇を近づけた。触れるか触れないかのわからないような曖昧なキスだった。こんなに臆病なじぶんなんて、ちっとも知りたくなかった。まなじりが熱い。すべてを誤魔化すように、俺は乱暴に目をつむる。そうしてそのまま、暗がりの中に飛びこんでいった。
眠りの余韻を漂わせた瞼を擦りながら、ホテルをチェックアウトした。あくまで事務的に、なんの感情もこめず料金を支払い、ホテルの自動ドアをくぐり抜ける。朝日の昇りきらない空は、けれど青く晴れていて、ビルに引っ掛かりそうな位置に雲が一つ二つ浮かんでいる。
「お金、俺が払ったのに」
俺の隣でぐずぐずと訴える紬さんに、俺は「だいじょぶだって」となんどめかになる言葉を向けた。
「べつに、けっこー手持ちあったし」
「でも、折半なんて。万里くんのお誕生日なのに」
唇を尖らせる紬さんのしぐさは、いちいちが幼くて可愛い。抱きしめて、そのツン、と尖った唇に今すぐにでもキスをしたかった。もちろんそんなことはしないけれど。
紬さんはいまいち納得のいっていないようすで、服の裾を握りったり離したりと落ちつかない。俺は笑って、あ、そうだ、と言った。
「じゃさ。どっかてきとーな店で朝めし食わねえ? 珈琲飲みてーきぶん」
俺の提案に、紬さんは「それなら」とほほ笑んだ。
「俺がご馳走する。この時間、いいお店あるかな?」
「このへんの店はよくわかんねーけど、歩いてたらなんか見つかんじゃね?」
そう言って、俺はトン、と石の階段を降りた。出入り口につづく短い段差はすこし湿っていて、明けがたにでも雨が降ったようだった。
「ん」
ふり返って右手を差し出すと、紬さんは苦笑を浮かべてからその手を握ってくれた。昨夜、触れたときとおなじ、つめたく骨の輪郭がわかる手だ。それで、今の紬さんは昨夜の紬さんといっしょだ、なんて、意味のわからないことを思った。
きのうから俺たちはずっといっしょにいる。ふたりだけで、ふたりの時間を共有している。俺たちの見た景色や、触れたものについて、ほかの誰も知らないっていう事実を噛みしめると、優越感に似た快さが湧きあがって、気分が高揚した。
これは、俺と紬さんだけの時間だ。
「万里くん、なに考えてるの?」
え、と、俺は驚いて隣を歩く紬さんを見た。「顔が、ちょっと緩んでる」。紬さんはおかしそうに言った。
「緩んでねーよ」
恥ずかしくなってそう言えば、紬さんには珍しくつよい口調で、
「嘘。緩んでた」
と、つづけた。
ああ――、と、俺は空いている左の手のひらで顔面をこすった。くっそ、恥ずい。ありえねぇ、ニヤけてたのか。ポーカーフェイスを気取るつもりはないけれど、うれしいって感情が顔に出てたとか。
俺の傷ついたプライドに気づいているのか、いないのか、わからないけれど、
「万里くん、可愛い」
そう、ひとり言のように紬さんが言うので、「やめてくれよ……」と俺はぼやいた。
徐々に明るくなっていく光が濡れた道路を照らし、行き交う車の数もしだいに多くなっていく。数人のビジネスマン風の人間とすれ違ったけれど、誰も俺たちには気をとめない。男二人が手を繋いで歩いていることを、もっとふしぎがってもいいと思ったのに。
案外、こんなもんなんだな、と俺は思った。
同性同士という枠は、日本ではまだ目立つ輪郭として認識されていて、批難や中傷や珍しさの対象になると思っていた。けれど、実際は、人々は俺らを見て足を止めるほど暇ではないらしい。
「そーいやきょう、土曜だよな?」
ふいに思いだして確認してみると、紬さんはうん、と頷いた。
「土曜日じゃなかったら、きのうのお願いは聞いてあげられなかったよ」
冗談っぽく、紬さんはつづけた。この人は俺が学校をずる休みすることを、このましく思っていない――当り前だけれど。
「土曜もふつうにみんな忙しそーなんだな」
革靴の音を響かせて俺の側を速足で歩いていった背広の男を見やって、俺は言った。
「土日も関係なく朝っぱらからバタバタ出勤とか、ぜってーやだ」
ずる休みもそうそうできなさそうだし。そういえば至さんも毎朝愚図りながら、忙しなく出勤してるっけな。
「万里くんは、将来どういう仕事に就くのかなあ」
ふいに紬さんがそう言ったので、俺は下唇を軽く噛んだ。その声にはたのしそうな響きがあり、けれど特に俺の返事を求めてはいなさそうだった。ひとり言をくちの中で転がしていたら、ぽろっと出てきてしまった、みたいな。紬さんには時々、そういうところがある。
将来か。
紬さんの言葉を頭の中で反芻させながら、けれど無言で、脇に連なっている店を見やった。
二十四時間営業の牛丼屋、シャッターを下ろしたチェーンの居酒屋が多い。予想はしていた。いい店が見つからなかったどうするか、どっかのファミレスにでも入るしかないのか。それはあまりにも味気なくて、いやだ。てろてろと歩きながら、大きな交差点に入ろうとした時、「あ」と紬さんが声を上げて俺の手を引っ張った。
「あれ、あそこのお店、やってるみたい」
指差す方向を見ると、赤い屋根のちいさな珈琲屋風の店が、交差点を渡った先の角にあった。看板が立ち、軒先の花壇に植えられた花が揺れている。
「喫茶店……だよな?」
「たぶんね。行ってみない?」
上目遣いで提案されたら、俺にNOと言えるわけがない。手を繋いだまま交差点を渡り、その店の前に立つと、こうばしい珈琲の香が鼻先を浚った。
花壇に植えられた花を見て、紬さんは「きれい」とわらった。俺には名前のわからない花には水滴がつき、表面の土はしっとりと湿っている。道に面したほうにテラス席があり、赤茶色のテントで守られたそこは足もとがすこし濡れているだけで、椅子もテーブルもぶじだ。
ドアを開けると、カランッと取りつけられたベルの鳴る音が響く。古風で、中々感じが好い。ごめんください、と紬さんは遠慮がちに声をかけた。それが絵本に出てくる登場人物のようで、俺はすこしわらってしまった。森に迷いこんだ主人公が、一軒だけ見つけた家にそろそろとお邪魔するみたいな話。出てくるのは大概魔法使いとか、へんなばあさんとか、そういうのだけれど、カウンターに立っていた人物はいかにも喫茶店のマスターらしい髭を生やした白髪のおっさんだった。
「いらっしゃい」
おっさんの声は低く、音量が絞られたラジオのようにすっと耳に馴染んだ。その声を聞いて安堵したのか、紬さんは「おはようございます」と笑いかけて、
「あの、モーニングとかありますか?」
おっさんはグラスを磨いていたウエスをカウンターに置いて、こちらを安心させるようにほほ笑んだ。
「もちろん。うちはモーニングメインなんで。おすきなお席にどうぞ」
「ありがとうございます」
店内は、ちいさく、狭かった。天井も低い。カウンターと、テーブル席が二つ。テラスにもちいさな丸テーブルが二つ。木肌がむき出しの壁はいかにも老舗といった感じで、落ちついたそのようすに紬さんはすっかり店を気に入ったようだった。
「どこがいい? 万里くん」
俺が、どこでも、と答えると、紬さんはくすっと笑ってテラス席を指差した。俺は頷いて、そちらへと足を運んだ。
椅子に腰かけると、俺たちの手は自然と離れた。ずっと握っていた手のひらがつめたい空気に晒されると、ひどく心もとなく感じられて、惜しいような、まだ足りないと心が叫ぶような、頼りのない気もちになる。紬さんの瞳がすっと俺に向けられて、その透明な目玉に俺の顔が映りこんだ。優しくてやわらかな視線だった。
「何がいい?」
運ばれてきたメニューをめくる紬さんの声は、静かに、落ちついていた。いつも一緒にカフェを巡るときと変わらないようす。きのうから今まで、ずっといっしょにいて、長い時間を共有して、乱れているのは俺の心ばかりな気がして、俺は視線をテーブルの木目に落とした。
黙った俺を下から掬いとるように見あげ、紬さんは首を傾けてみせた。
「どうしたの」
「べつに……」
俺は、いじけた子どものように見えているのだろう。そう思うとよけいにくちを利くのがいやになって、紬さんから逃れるように視線を道路へと放った。
ガキ、と、頭の中で俺が俺を罵る声が響いた。この、クソガキ。俺の声で、俺をけなす。でもそれは事実だった。うるせーよ、わかってんよ。反駁すると声は遠ざかったけれど、頭の中で反響した音のかたまりは中々消えなかった。
道路を、何台もの車が走り去っていく。その音や、排気ガスの匂いが、みょうに神経に障った。
「万里くん」
ふと、テーブルに置いていた右手の甲が皮膚を触覚し、視線を戻す。紬さんの手のひらが、俺の手を包みこんでいた。
「そんな顔、しないでほしいな」
紬さんは眉を下げ、困ったようにわらっていた。
「……そんな顔、って、」
くちの中でもごもごと返す。情けなくて、恥ずかしくて、今すぐ席を立ってしまいたかった。包まれた手をじっと見つめる。白くて薄い手の下にある、俺の手。
「なんだか、見ていて不安になるみたいな……そういう顔」
「不安?」
うん、と紬さんは頷いた。耳の上を髪の毛がさらりと流れた。
「万里くんの表情いっこいっこに、俺がずい分迷わされてるってこと、きっと知らないでしょ」
紬さんの言葉を、俺はすぐには理解ができなかった。迷わされてる? それは俺のせりふなんだけど。
「万里くんが困った顔したらすごく焦るし、笑ってたらとても嬉しいし。そういうふうに、俺も万里くんにたくさん乱されてるんだよ」
なんで、と、俺は声にしようとして、唾を飲みこんだ。からからに渇いた咽がうまく言葉を繋いでくれない。なんで、そんなことを、今、言うんだよ。まるで俺の心を読んだみてーに。
「……万里くんとおんなじだ」
ぽつりと呟かれた言葉は、けれど俺の耳にしっかりと転がりこんで、俺の深いところに音を立てて落ちていった。
「俺とおなじなら――」
そう言って、俺は唇を舐めた。「俺とおなじなら、いいじゃん」。
つき合うことについて、紬さんは“あと二年”と言った。あと2年、待ってからだと。きのうの苛立ちが甦ってくる。二年なんて、そんなに、待てない。俺は“今”がいいし、今しかなかった。そんな気がした。
「今じゃ、やっぱだめ?」
紬さんはまなじりを下げた。どう答えるべきか、迷っているようだった。
手の甲をなぞる紬さんの指先を、俺は見つめる。文字か何かを書いているみたいな動きだった。血管を辿り、骨をたしかめ、肌の感触を指のひらで吸いとるような。
俺はため息をついた。それから、メニューをちらと見て、
「俺、モーニングA。ブレンドで」
と、ぶっきらぼうに放った。
モーニングがメインというだけあって、モーニングセットはA、B、Cと三種類あり、セットに選べるドリンクはメニューに掲載されている珈琲をどれでもすきに選べるらしく、自由でボリュームがあった。単品での種類もずい分と豊富だ。俺のモーニングAセットはその中で最もシンプルで、厚切りのバタートースト、ベーコンエッグ、旬野菜のサラダ、ヨーグルト。紬さんはうんうん唸って、けっきょく、Cセットとモカにした。どちらも、食事と珈琲をいっしょに持ってきてくれるように頼んだ。
「エッグベネディクトだ」
運ばれてきた皿を見て、紬さんは目を輝かせた。美味しそう、と無邪気に言う紬さんを一瞥してから、俺はブレンドをひとくち飲む。ほどよい酸味と苦みが絶妙に混じりあい、思わず「うまい」と呟いていた。紬さんが俺を見た。
「美味しい?」
「ん。……紬さんのモカも、香がいいな」
「うん。こうばしくて、主張すぎなくて、ちょっぴり甘くて、美味しいよ」
「ひとくち、ちょうだい」
紬さんはカップを俺に手渡してくれた。モカなんてふだん飲まないのに、紬さんの感想を聞くと飲まずにはいられなかった。咥内に含んだときに拡がった香が、鼻の奥を抜けていく。うまいな。唇を舐めて、カップを紬さんに返す。どう? と問うた紬さんの瞳にはかすかな不安の色が浮かんでいて、それを拭い去るように俺はわらいながら「うまい」と言った。
「よかった」
紬さんは息を吐いた。
そんなに神妙な顔をしなくてもいいのに、と思いながら、ついさっき紬さんの言った言葉を反芻させる。万里くんとおんなじだ――そう、紬さんはたしかにそう言った。俺が困った顔したら焦って、笑ってたら嬉しくて。俺だって、と、トーストに齧りつきながら思う。俺だって、いつも不安で仕方ねぇってのに。紬さんが困ってないか、つらそうにしてないか、気になってしょうがない。カフェで出される珈琲一つ、道端で見かける花一本に、顔を綻ばす紬さんをいつだって見ていたかった。誰よりも側で。何よりも早く。
そのくせ、誰よりも紬さんを困らせている自覚も、俺にはあった。
ナイフとフォークを遣ってエッグベネディクトを慎重に切っている紬さんの、やや傾けた顔にさらさらの黒髪が落ちる。頬が昇ってくる朝日に照らされて、つやつやと光っている。朝の、こんな時間を、ふたりきりで過ごすのは、はじめてのことだった。
「紬さんとモーニングって、はじめてだよな」
それで、俺はそう言った。「茶くらいしかシバかねぇし、寮から離れたとこで食事するとか、今までなかった」。
紬さんはこぼれたポーチドエッグの黄身にイングリッシュマフィンを浸してくちに運び、飲みこんでから、こくん、と頷いた。
「こうやってゆっくり朝食を食べるのも、たまにはいいね」
「俺といっしょに?」
紬さんは薄くほほ笑んで、しばらく黙ってから、「そうだね」と言った。
そのとき、俺の心の底で、熱い感情がぶわりと噴き出した。それはかたちをなさずに俺の体を内側から熱し、骨を溶かし、血管をぐだぐだに爛れさせた。すきだ、と、つよく思った。俺は、どうしようもなくこの人のことがすきだ。いくら拒否されても、だめと言われても、俺がこの人のことをすきだという事実は覆らない。誰にも、何にも、覆せない。紬さん本人にさえ。
「紬さん」
俺は、紬さんの瞳をじっと見つめた。なあに。低い声が、テーブルの上に落ちる。それを拾い上げて噛みしめ、飲みこむ。内側の熱が紬さんの声を溶かして、俺の体の一部に変える。
「俺、あんたのことがどうしようもなくすきだ」
告白を、紬さんは黙って聞いていた。皿の上で料理が冷えていくのがわかった。どちらも、手を動かさない。白く清潔な皿を挟んで、俺たちは互いに向き合い、風と、光の感触を頬に受けて、視線を結んでいる。道路を行く車の音が耳朶を滑ったけれど、気にならなかった。目のまえの人間にたいするつよすぎる感情に支配されて、俺はくちを動かす以外にできなかった。
「あんたがすきだ。紬さんがいくらだめって言っても、俺はすき。困らせるってわかってるけど言わせて。俺はガキで、どうしょうもねぇガキで、だけど、あんたのことがすきだって気もちは、ずっと変わらねぇから」
言葉にしながら、泣きそうだった。先の見えている告白ほど、むなしいものはないとわかっていた。でも。
「……なんか、“すき”が爆発したみてぇだ」
両の手で顔を覆い、テーブルの上に俯いた。バタートーストの匂いが鼻先を掠める。とっくに冷えて、バターを吸いすぎたトースト。
「悪ィ」
俺は言った。掠れた声が情けなかった。
紬さんの答えは、もう出ていたはずだった。きのう耳にした声が甦って、それをまた聞かされるのだろうと思うと心臓がぎゅっと痛んだ。俺は、俺がこんな人間だったなんてちっとも知らなかったし、知りたくもなかった。こんな、すきなやつに告って、フられて、傷つくていどには平凡で弱っちい人間だったなんて。何でもできるし何でもできた、できないことがなかった。でも、今まさに、手にしたかったものが手に入らなかったという事実に打ちのめされている。手のひらの中で笑いが洩れた。風の音にまぎれるくらいの、息を吐いただけみたいなちいさな自嘲だった。
紬さんの指が、俺の髪に触れた。沈黙が数分、流れたあとだった。細い指が髪を撫で、毛先を遊んで、離れ、また触れてくる。紬さんはそれをなんどかくりかえし、
「万里くんの髪の毛がすき」
ぽつり、と、言った。俺はわずかに顔を上げた。紬さんの顔が見えた。笑ってはいない、かといって困ってもいない、感情のわからない表情だった。こんな顔を、この人もするのか、と思った。
「さらさらで、指のあいだを流れてくみたいで。色もすき。あんまりつよくない茶色。毛先がくるって跳ねてるのも」
ひとり言のように、紬さんは話しつづけた。その声を、俺はじっと身を硬くして聞いていた。
髪の毛を一通り遊んだあと、するりと指が動いて、耳朶の輪郭をなぞった。それから額、頬骨と、俺のかたちをたしかめるように流れていく。
「額のかたちがきれいですき。頬骨から頬っぺたにかけての輪郭もなだらかで、やさしげで。それから鼻のあたまがちょんって尖っているのもすきだな」
「紬さん?」
動揺が声に滲んでいた。こんなふうに無遠慮に顔を触ってこられたことなんてない。身を引くつもりはないけれど、途惑いは隠せなくて、けれど紬さんの指が唇に触れたとき、全身がざわめいて思わず肩が持ち上がった。
指が離れた。紬さんはやわらかな微笑を浮かべて俺を見た。
「万里くんが、万里くんのかたちをなしてるすべてが、俺はすきだよ」
どういう意味? と問おうとして、けれど唇を引き結んだ。紬さんもまた、言葉を探しているふうだったから。
「万里くんをかたちづくってるいっこいっこがいとしい。その内側にあるんだろう心もいとしい。――俺だってどうしようもなく、万里くんのことがすきなんだなあって思うんだよ」
大きな風の波がやってきて、紬さんと、俺の髪の毛を吹き上げていった。ばさばさと乱されるままに、どちらも髪を抑えるでもなく、ただ目と目を見つめあって、互いに互いの出方を窺っているみたいだった。
こういうのは、得意じゃない。答えはすぐにほしい。そう思ったけれど、紬さんのまえで俺はいつも無力だった。だから、おとなしく、紬さんが俺に伝えたいことを、紬さんの言葉から読みとるしかなかった。
「万里くんの気もちが、やっぱりとてもうれしいな」
まなじりを下げた紬さんの顔は、こちらを慈しむようなもので、なんだか気恥ずかしくなった。それでも目を逸らせずにいると、紬さんは一つ、息を吐いて、つづけた。
「俺の誕生日まで、待っていてくれる?」
「えっ?」
それは、予想のしていなかった言葉だった。誕生日? 紬さんの誕生日は、十二月だ。あと三ヶ月後。年の終わりが見えてくる頃。真冬の、いかにも紬さんが生まれた月らしく静かで、薄ぼんやりとした空が毎年印象に残る、そんなとき。
「俺が誕生日を迎えて、万里くんの気もちが変わっていなかったら――、」紬さんはいちど言葉を切って、瞼を軽く伏せ、言った。「万里くんのさっきの言葉を、俺への誕生日プレゼントにしてくれるとうれしいな」
俺は、声を失くしたみたいにくちをぱくぱくとさせて、紬さんを見ていた。それって、どういうこと? 問いたかったけれど、言葉が出てこない。またしばらくの沈黙が落ちた。いつの間にか、道を往く人々の姿が増えているのを、目の端にみとめる。陽はすっかり昇って、斜めの角度から俺たちを照らしていた。
「……わかった」
俺はようやくそれだけをくちにした。こんどは掠れてはいなかった。はっきりとした輪郭を持った言葉が出てきたことに安堵をする。万里くんの気もちが変わっていなかったら、なんて、とうぜんだ。こんなにもすきなのに、変わるわけがない。
「変わらねぇよ」
俺が言うと、紬さんはくすりと笑って、
「うん。ありがとう」
と、言った。
それから、ナイフとフォークを再び手に取って、崩れかけたエッグベネディクトに視線を戻した。俺も渇きはじめていたトーストを両の指で摘み上げてくちへと運ぶ。バターの浸みこみすぎたトーストは、それでもじゅうぶんに美味しくて、噛みしめると瞬く間にくちの中でほどけていった。
食後に、珈琲をそれぞれお代わりして、会計を済ませ店を出た頃には、陽はまた角度を変えていた。今、何時だ。腕時計を見る前に、紬さんが「九時前か」と呟いたので、それで時間がわかった。
「なんだ。まだぜんぜんよゆーだな」
「でも、そろそろ寮に帰ったほうがいいかもね」
帰る、という言葉に唇が尖った。まだふたりで街をふらふらしていたい。せっかくの土曜日、せっかくのふたりきりの時間。
「……帰る?」
俺は紬さんを見た。
「帰りたくないの?」
問い返されて、言葉に詰まる。「帰りたくねぇっていうか……」。もごもごとくちの中でぼやくと、紬さんはおかしそうに笑った。
「じゃあ、まだもうすこし、散歩しようか」
監督には俺から連絡するから。そう言ってポケットからスマホを取りだす紬さんの横顔は、つるんと白くて、やわらかそうで、さっきの喫茶店で紬さんの食べていたエッグベネディクに乗っていたポーチドエッグみたいだった。
「いいんすか?」
不器用に画面をタップする紬さんの指はたどたどしい。俺の髪を、頬を、耳朶をなぞっていた動きとはまるでちがう。
紬さんはちらと俺を見た。悪戯好きな子どもみたいな顔をしている。
「稽古もないし、せっかくの万里くんのお誕生日だしね」
でも、お昼前には帰ろう。きっとみんなもお誕生日会をしたがってるだろうから。そうつづけて、紬さんはようやく監督ちゃんにLIMEを送れたのか、満足そうにスマホの画面を閉じて、ポケットに戻した。
「紬さんも、じつはけっこう遊び人?」
からかうように言えば、紬さんは慌てたようすで両手を振った。
「そんなことないよっ」
「はは、知ってるって」
俺は紬さんの手をとった。薄くて、つめたい手。遠慮がちに握りかえしてくる手が、俺の体温ですこしずつあたたまってくれることを願う。柄じゃないけれど、心からそう思う。
「天気いーな」
空を見あげると、街路樹の葉のすき間から、澄んだ青空が見えた。夏の気配を遠くに連れ去ってしまったみたいな、秋の空だ。風が吹くたびに髪と、服の裾がはためく。足を一歩前に踏みだすと、すこし遅れて紬さんが歩きだす。控えめに並んで、俺たちは歩いていく。
はじまりまで、あとすこし。淡い希望が、俺の胸のうちでそっと灯った。