むき出しの足につま先で触れると、万里くんはくすぐったそうに一瞬身を捩ってから、応えるように足を絡めてくる。すっかり成熟した男のものになったというのに、かれの足の表面はすべすべとして触っていて気持ちがいい。悪戯をするみたいになんども、俺は万里くんの臑を、ふくらはぎを、足のひらで撫でる。
 ふ、と笑う気配を感じ、かれの顔を見上げれば、ゆるい弧を描いた目とぶつかって、自然とくちもとが綻んだ。
「紬さん、俺の足すきなの?」
 低い声は湿っていて、ついさっきまでの熱の交換を思いださせてすこしだけ、恥ずかしかった。けれど、それを顔には出さないように気をつけながら俺はすなおに頷く。
「すきだよ」
「男の足なんて、そんないいもんでもねーだろ」
「そんなことないよ」
 俺たちの声は広くはない寝室を漂い、白い壁に吸いこまれて消えていく。もうなんど、こんなふうにふたりきりで夜を越したのだろう。
 カーテンで区切られたベランダの向こう、ずっと遠くで、パトカーのサイレンが聞こえた。夜更けの街を一瞬だけ騒がせて、それはすぐに遠ざかっていった。世界とは切り離されたみたいな場所で、俺たちは一つのベッドの中で互いの肌をくっつけ合い、ガーゼケットを肩まで引っ張り上げて、時間がゆっくりと過ぎていくのを全身で感じている。
「なに、紬さん、ニヤニヤして」
「え、ニヤニヤしてた? 俺」
「してた」
 指摘されてはじめて、俺は俺の表情がすっかりゆるんでいたことに気がついた。気をつけていたはずなのに、万里くんには通用しなかったらしい。役者としてどうなんだろう。羞恥を隠したくて手のひらで顔を撫でると、万里くんの手が伸びて俺の手首を掴んだ。
「隠すのだーめ」
「ええ……」
 暴かれてしまった顔を枕に沈めようとしたけれど、万里くんが片ほうの手でぐっと顎を抑えたせいで、それもかなわなかった。俺の顔は自然、彼を真っすぐに見つめるかたちになってしまう。
 恥ずかしい。そう思うのに、万里くんがゆるしてくれない。仕方なくかれの瞳をじっと見た。夜闇がかれの瞳を、輪郭を、淡くふちどり、けれど瞳は水を湛えたように光っていた。きれいだな、と、ぼんやりと思う。こんなふうに近くでかれの顔を見ることができるという現実が、時々、信じられなくなる。今、俺たちはふたりきりで、夜のひとときを過ごしている。それが、どうしようもなく幸福で、あまりにも非現実的で、恐怖さえおぼえるのだった。
「いま、何時だろ」
 すこしの沈黙ののち、俺は訊ねた。万里くんが首を傾けて、俺の背中側にあるサイドテーブルを見やった。寮を出る時に一成くんがくれた、お洒落なデザインの置時計がそこで静かに時を刻んでいる。「一時、ちょい過ぎ」。気のないふうに、万里くんは言った。
「もうそんな時間」
「紬さん、そろそろ眠くなったんじゃね」
 うん、と俺はくちの中で呟いて、けれど手は万里くんの頬に伸びていた。頬の輪郭を指でなぞると、「くすぐって」と万里くんの目がますますほそくなり、俺の顔を抑えていた手が離れた。自由になった顔はすきに動かせるのに、俺の目は万里くんを捕えて追いかける。もっと顔を見ていたかった。もっと顔を見せてほしかった。ゆるく下がったまなじりや、薄い唇が持ち上がるさまを、ずっと見たいと思った。じぶんの顔は恥ずかしくて見せたくないのに、万里くんの顔は見ていたいと思う、俺は大概我が儘で、どうしようもない。でも、見つめて、見つめ返されることの嬉しさを俺は知ってしまったから、いつまでも目を離せないし、離したくないと思った。
 一週間ぶりに重ねた肌は、あっという間に熱を帯びた。時間を気にする必要のない夜は自由で、おおらかで、心地好かった。
 万里くんは俺のからだのあちこちにキスをして、そのたび、こそばゆさになんども笑った。額、まぶた、鼻の頭、耳朶、頬、顎、首筋、鎖骨、両の胸、お臍――どんどんと下がっていく万里くんの唇に驚いて、逃げようとしたけれど、できなかった。太腿のうら側を舐められたとき、背骨に沿ってビリッとした電流が走って俺は息を洩らした。
 セックスはお互いの休みが重なった日の前日と決まっていた。どちらかが提案したわけではないけれど、いつからかそれが暗黙のルールとなって俺たちの生活にしみついていた。ただ手を繋いで眠るという夜も多い。無暗矢鱈と抱きあう必要は、もうなかった。俺たちはこの先も、ずっといっしょにいられるのだから。
「あしたの朝ごはん、何がいい?」
 俺は万里くんを見つめたまま、そう問うた。あした――日付けが変わってしまったからもうきょうだけれど。万里くんは「ん」と咽の奥でちいさく唸って、朝めしなー、とひとり言のように言った。
 MANKAIカンパニーの寮を出て、ふたりで部屋を借りてから半年が経とうとしていた。万里くんは大学、俺は劇団の稽古にバイトとそれなりに忙しく過ごす中で、ようやく生活のリズムが掴めるようになってきた頃だった。
 季節は折り重なるようにして一つずつ終わってゆき、金木犀の匂いが漂いはじめて、空は高く青く澄み、風の音が変わった。寮を出たことのさみしさが消えることはないにせよ、ふたりでの生活への期待と嬉しさは日に日に膨らみ、それはきっと、幸せ、と呼ぶものなのだろうと俺は思う。
 隣にすきな人がいる生活は、心をならしていく。借りた部屋はけっして上等なものではなかったけれど、生活をするぶんには何も不自由はなかった。万里くんの大学にも近いし、電車一本でMANKAIカンパニーに行くことができる。穏やかで心地の好い空間だった。
「紬さんは? 和食? 洋食?」
 万里くんの質問返しに、俺はまごついた。きのうの朝の献立を思いだす。きのうは白いごはんにじゃが芋と玉ねぎのおみそ汁、鯵の干物にきゅうりのお漬物だった。二十分もあれば食べ終わるシンプルな朝食だったけれど、きゅうりはよく漬かっていたし、じゃが芋はほくほくとくちの中でほどけて、干物はこうばしくとても美味しかった。
「きのうは和食だったから、洋食がいいかなあ」
「洋食か……」
 万里くんはすこし思案顔を作ってから、そういえば、と言葉を継いだ。
「紬さんが美味しいって言ってたパン屋のパン、冷凍してたのまだあったよな?」
「ああ、あそこのイギリスパン、ほんとに美味しいんだよねぇ」
 稽古帰りに偶然見つけたパン屋を俺はすっかり気に入って、二周に一度は通っている。山型食パン、バゲット、フォカッチャ、菓子パンなど種類も豊富で、特にイギリスパンは、毎回一斤は買ってしまう。前回買って食べきれず、切り分けたものが冷凍庫に残っていることを思いだした。食べてしまわなければ、せっかくの味が落ちてしまう。
「じゃあ、それを焼いて、目玉焼きとサラダにしようか」
「臣が送ってくれたチーズも食わねぇとな」
「そうだね、あれも美味しいよね。さすが臣くん」
 いまは社会人のカメラサークルに所属している臣くんが、撮影旅行のために立ち寄った牧場で買ったというチーズを、お土産にと俺たちにまで送ってくれた。クリームチーズ、カッテージチーズ、モッツァレラチーズ、ゴーダチーズ。俺はチーズにはあかるくないから詳しいことはわからないけれど、色々なかたちをしたチーズを眺めたときの嬉しさは心をあたたかくした。時々、万里くんがワインを買ってきてくれて、ふたりでチーズをおつみまみに飲むことがある。
 お土産とともに、臣くんが撮影した何枚かの写真と、『仲よく暮らしてください。』といった短い手紙を添えられていた。その心づかいが、まったく臣くんらしかった。
 写真と手紙はボードに貼って、いつでも目に留められるようにしている。
 万里くんとごはんの相談をする。それは俺をひどく幸せな気もちにさせた。寮にいた頃のような豪華な食事は作れないけれど、シンプルで素朴な食卓でも、ふたりで向かいあっておなじものを食べるということは、それだけで充分に俺を満たした。――万里くんもおなじ気もちであればいいな、と、俺はひそかに思っている。
 万里くん、と、俺はちいさな声で名前を呼んだ。指を拡げてかれの顔を両の手で包みこみ、薄い唇にキスをする。湿った、あたたかな唇だった。
 息の洩れる音が聞こえ、顔を離すと万里くんは笑っていた。
「どうしたの」
 問うても、「べつに?」なんて言って俺の頭を撫でてくるだけで、はっきりしない。大きな、けれどしなやかに指の伸びた手のひらが俺の頭を包んで、それが安心感を与えてくれる。
「紬さん、かわいーなーと思って」
 笑みを隠そうともしない万里くんに、俺はすこしだけ、むくれる。大人をからかって、と批難したかったけれど、万里くんも、よく考えればもう大人なのだった。
「もう」
「はは、拗ねんなって」
 額にキスをされる。その動きのあまりの自然さに、ハッとする。高校を出て、大学生になった万里くんは、けれど変わらず俺の側にいてくれる。むかしとおなじやわらかな笑みを浮かべながら、俺の目を見つめてくれる。いっしょにごはんを食べてくれる。珈琲を淹れてくれる。嘘みたいだけれど、今はまちがいなく現実で、俺も万里くんも、ここにいる。
「朝がたのしみだな」
 そう言って万里くんは枕に頬を沈めた。俺に顔を向けたまま、俺の頭を撫でた手をそのままに。うん、と俺も頷いて、肌をかれに寄せた。ぴたりと寄り添って、互いの心臓の音に耳を傾けていると、自然と瞼が落ちていく。寝ていーよ、と、遠くから万里くんの声が聞こえた。ゆめの淵に立った俺は、かれの声に甘えて目をつむる。呼吸が浅く、低くなっていく。すぐ側で万里くんの体温を感じる。
 なにも心配することのない安全な場所に、俺はいま横たわっている。
 打ち寄せる波が足首を浚っていくような心地好さに誘われて、俺は眠りの中へと落ちていった。