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月は満ちた

柄丑



「んむ、」
 丑嶋の行動はいつも唐突で、柄崎をたやすく混乱させる。コンビニの駐車場、買ってきたアイスコーヒーを両手に持ち、丑嶋の運転するハマーの助手席に乗りこんだ瞬間だった。一瞬、顔にかげが差した、と思ったときには、丑嶋のうすい唇が柄崎のそれに押しつけられていた。
「しゃ、ちょ」
 白木蓮の咲き始めた、まだ淡い春のま昼間。コンビニの駐車場には煙草を吹かすサラリーマンや買い食いをする学生の集団がまばらに見えていた。スモークガラスでもなんでもない窓硝子越しに、こちらの様子はきっと丸見えなはずで、だれよりも警戒心のつよい丑嶋がとつぜんにくちづけをしたことに柄崎は驚きを隠せなかった。
 ――なんで?
 くちづけは一瞬で、丑嶋の顔はすぐに離れていった。翳りの溶けた顔を早い春の、やわらかな日ざしが撫でる。丑嶋はフロントガラスのほうを向きなおり、すましている。表情はまるで変わっていない。
 へ、なんで? 当然浮かんだ疑問を、だが驚きでくちに出せないまま、柄崎は無言でアイスコーヒーを丑嶋に手渡した。ガラ、と、プラスチックの容器の中で氷が回転し、ちいさな音を鳴らす。
 何事もなかったかのようにストローにくちをつけ、中身を吸い上げる丑嶋を見て、ぐ、と唾を飲んだ。くちづけられたせいで、気分が高揚している。上下するのどぼとけが色っぽく、今すぐ嚙みついてしまいたいと思う。そんなことをしたらどうなるだろう、と、熱を帯びた頭で柄崎は思考する。思考すればすぐにでも実行したくなり、体を前傾させて丑嶋に顔を近づけた。切れ長の目が柄崎を見た。
「なに」
 いつもの、なにも変わらない平坦な声。ストローをくわえているせいで少しくぐもっている。
「あの、も、」
 もし、よかったら。ホテル。行きません?
 切れ切れに言う柄崎を、丑嶋はしばらく見つめていたが、すぐに視線を外して、
「なんで」
 と、言った。
「え!」
「つーか仕事中だろが」
「だ、だって!」
「なに」
 じゃあなんで、いまキスしたんすか! 顔をまっ赤にさせている柄崎は車の外にも聞こえてしまいそうな声で叫んだ。ウルセーよ。丑嶋は舌打ちをして、アイスコーヒーの容器をドリンクホルダーに置き、エンジンをかけた。燃料の燃える音が振動となって柄崎の尻から背中にかけて上ってくる。
 ハマーを発進させ、コンビニの駐車場を出るとあっという間に太い国道に乗った。あとはこのまま真っすぐ取り立て先の現場に向かうだけだ。
 ――社長の考えてることがわかんねー。
 まだ熱を残してじんじんする皮ふを持て余しながら、頭を抱えたい気持ちで柄崎もアイスコーヒーを一口飲んだ。コンビニのコーヒーにしてはマシな味がする。勢いよく半分飲んで、膝のあいだに容器を握った手を落ちつけた。
「……社長、ずるいっすよ、そーゆーのは」
 ひとり言のように、言う。道路を擦るタイヤの音に紛れて、丑嶋の耳に届いたかはわからない。柄崎は、だが、つづけた。「そーゆー、ふい打ちみたいなのは」。
 どうしたらいいのかわからなくなる。でも、どうもしなくていいのかもしれない。ただ丑嶋のしたいように、求められるままに、与えればよいのかもしれない。とつぜんのくちづけも、かれがそうしたいのだったら、いくらでも体を差しだせばよい。いや、むしろ、それが柄崎の望みでもあるのだから。
「知ってる」
 にわかに丑嶋の声がして、柄崎はハッとして顔を上げた。前方を睨みながら、丑嶋はステアリングを握っている。目をまるくさせている柄崎には、丑嶋の言葉の意味がつかめなかった。つかめなかったが、火照った体はじょじょにさめて、やがて心地のよい温度に変わり柄崎をあたためていった。
「……はい」
 こくん、と頷く自分は子どものようだったのではないか。そのさまを丑嶋に見られるのはひどく恥ずかしかったが、車内に逃げ場はない。ふたりきり、シートに並んで振動に揺られている。この車の窓硝子の向こうから、俺たちはどんなふうに見えてるんだろう。さっき、コンビニの駐車場でくちづけられたとき、もしも誰かに見られていたとして、俺はこの人の恋人なのだからなんの問題もない気持ちになっていた。
「好きっす。社長」
 俯きながら言う。丑嶋から言葉は返ってこなかったが、柄崎は満足だった。
 体も心もすべて、渡すことをゆるされている――そのことが柄崎をひたひたと満たしていた。

(初出:2022年2月18日)
畳む


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